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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[159]ゴビ沙漠の入り口

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第11節 沙漠ゴビ

[159] ■1話 遠征42日目 ゴビ沙漠の入り口
 ハミルから二日半掛けて、二人はようやく沙漠ゴビに向かう分かれ道に差し掛かった。馬上で振り返ると、真後ろには一昨日おととい南麓を通って来たカルリク・タグ山が聳え立ち、前方には北から西の奥へと雪を抱く白い山並みが続いている。アルタイだ。
 はるか後方に見える小山を南に越えて行けば、少しずつ祁連キレン山の方角へと折れながら、いずれは漢が支配する河西カセイ酒泉シュセンに至る。
 このまま沙漠ゴビに入り、こいしで覆われた道をいままで通りの進み方で北上して東アルタイの山並みを越えれば、この荷物なら、七日ないし八日でハンガイ山の南麓にある匈奴の烽火のろし台に出る。その砦から単于の王庭まではおよそ十日。しかしそこは、「ここだけは避けよ」とメナヒムに命じられた道に近い。
 シルもゴウも、休ませながら進まないともたない。エレグゼンは買って来たものを少し捨てて荷物はすべてラクダに載せ、二人が交代で替えの斑馬ぶちを使うと決めた。「高すぎる」と言っていた砥石も、ナオトが背負子に移した一つを除いて、ぶつぶつ言いながらこのときに捨てた。

 これからの道順をナオトに話していて、どうも呑み込めていないらしいと気付いた。それはそうだ。ナオトにとって沙漠ゴビは初めてなのだ。いま向かう地がどういうところか、思いもよらないだろう。
 そこでエレグゼンは、まるで、これからナオトが一人で沙漠ゴビを渉ろうとしているかのように、年老いた匈奴から冬の営地で繰り返し聞かされた話を語りはじめた。
「いま、れらがいるのは西の沙漠ゴビの外れ、メナヒム伯父たちが待つオンギン川からみて馬で十日ほど西にあるアレマリの水場の近くだ。大地が割れていて、そこから水がいている。そこだけ光って見えるので、すぐにわかる。
 ゴビを渡るときには、知っている水場が近くなったら何をおいてもまず水を探す。決して見過ごしてはだめだ。野のロバが水場を教えてくれることもある。水を汲むときには、一人見張りを置いて、オオカミの気配に気を付ける。水場で待ち伏せしていることがあるからだ」
「オオカミか……」
「昔、この先にあった土城近くに住む女は、みな美人だと古くから言い伝えられてきた。色が白くて、ふくよかで、それに鼻が高い。大昔からだ。胡人の血が混じっているためだろう。ゴビの西の外れのこの辺りはそういう土地柄なのだ。
 老上単于の頃、匈奴に、いまに至るまで語り継がれる伝説の勇者がいた。その名を知らない者は匈奴にはいない。百騎を束ねて戦さに出れば、必ず敵を倒して数多くの捕虜を連れ帰った。一度たりとも敗れたことのない百人隊長だった。その隊長が、一度だけ、「何をおいても水場」という教えを守らなかったことがある。
 月氏の残兵を追って沙漠ゴビを西に越えたか越えないかのところで、『水場を見て来る』と言い置いたまま、その隊長が行方知れずになった。
 あの隊長が沙漠ゴビで迷うはずがない。何かが起きたと、部下は手分けして八日と七晩を掛けてゴビのあちらこちらを探し回った。そしてついに、ハミルの手前の森に少し入った女人宿おんなやどで痩せ衰えて死にかけている隊長を見つけた。
 そのとき、九十九人の匈奴の男が隊長と一緒の女を見た。そして、年長者としよりも若いもんもみな一斉に、そうかと頷いた。それほどに、隊長が出会った女は美しかったという。水場を探しているところを誘い込まれたのだ。その場所がこのすぐ近くだ」
「……」

「吾れら匈奴の若い者は、年長者としよりからいろんなことを仕込まれる。野で捕まえたばかりの馬と同じようなものだ。去勢して馴らし、タテガミを切り揃える。
 十五の頃には、立ち方と歩き方、帽子のかぶり方。馬の引き方、走らせ方、それに手綱の握りまでぐずぐずと言われた。一日の終わりの手入れの仕方まで細々こまごまとだ。そばに寄ってきて馬銜はみの緩みを確かめたかと思うと、ひづめを触ってみろと言われる。ねつっぽくはないかと探るのだ。
 少しでも手を抜けば、馬を痛め、乗っている自分の脚や腕を痛め、どちらにせよ、それがもとで命を落とすことがあるからだ。一騎が失われれば、その隊が危うくなる。しかし、確かにそうだと心底わかるのは死ぬ間際になってからだろうな」
「……」
「馬のことだけではないぞ。弓の持ち方、ひじと指の使い方、弦の引き方、へその位置と力の抜き方。矢と矢羽根の選び方、長さの違うやじりの仕組みと選び方、研ぎ方、剣の選び方、握りへの工夫、剣の握り方と回し方、鞘への納め方、背負うときの革紐の結び方……。
 まず仲間同士でやってみて、それから、何から何まで直され、このようにやれと教わるのだ。どれもまあまあ楽しいが、しかし、きついときもある。
 だが一つだけ、楽しいだけで、なにもつらいことはないというものがある。何かわかるか、ナオト?」
「ううーん。わからぬ」
「考えろ」
「考えてもわからぬ。吾れは匈奴ではない」
「はははっ、いいだろう。それはな、女だ」
「女? 女についても教わるのか……?」
「ああ。女の選び方を教わる。年寄りが、みなで寄ってたかって教えてくれる。だがな、ナオト」
「……?」
「馬や弓矢とは違って、女の選び方に正しいも正しくないもない。れらは、そう教わるのだ」
「……?」
「はっはっは、もういい。そのときが来れば、お前にもわかる」

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