『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[124]イデッレイはザヤの言葉
第5章 モンゴル高原
第9節 季節は巡る
[124] ■5話 イデッレイはザヤの言葉
いい粘土はないかと、エレグゼンに頼んで探し回り、冬の牧地の北のケルレン川沿いまで出掛けた。その昼下がりには、風と寒気を防ごうと、細かいところまで教えてもらいながら自分のゲルの裾を始末した。
それも終えた夕べ、ナオトは珍しくエレグゼンのゲルで夕餉をとった。その晩、エレグゼンは、ナオトがこれまで聞かされていなかったことを口にした。
「ザヤが助けるとしつこく言うので、ザヤの父のメナヒムはあのときの集まりでそう決めたのだ。そうでなければお前はあの日に死んでいたと思う」
初めて聞く話だった。
――そうだったのか……。
エレグゼンはナオトに、そのときの部族内の集まりで出た話を問わず語りに詳しく話した。聞き終えたナオトが、
「誰にも言ったことはないが、ザヤは吾れの姉に似ている。髪も、横顔も。ときどき見せる遠くを見るような眼差しはとくに似ている。初めて会った頃、吾れはザヤのことをイデッレィと呼んでいた」
と言った。突然どうしたという顔でエレグゼンが見るのであわてて付け加えた。
「いや、本当はどういう意味なのかなと思って……」
「イデッレィか、少し違うが、食べろということだろう」
「食べろか……?」
「そうだ。ザヤがそう言ったのか、食べろと?」
「ああ、吾れがここに来た最初の頃によくそう言われた。イデッレィと、何度も」
「あのときのお前は、確かに、いまにも死にそうなほど痩せていたからな」
「ああ。飢えていた」
「それでイデッレィか。はははっ。ところで、近頃お前が身に付けているその皮衣はザヤが作ったものだ。帽子もそうだ」
「……。そうか、そんな気はしていた」
「ふーん、気付いていたか……」
このエレグゼンとのやり取りがあった後も、ナオトのザヤへの接し方が変わるということはなかった。いつも通りに、近すぎず、しかし、無視しているというふうではない微妙な間合いを保った。
とはいってもナオトは、エレグゼンの話を聞いて、あのときのザヤは、吾れの命を救おうと必死だったのだと知った。そして、それ以後にナオトの前で見せた態度の意味もわかった。
――何か、皮衣への礼をしなくては……。
ナオトはそう心に銘じた。
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