『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[059]櫓、隠し江、ガラスの器の交易品
第3章 羌族のドルジ
第3節 龍の岩山
[059] ■1話 櫓、隠し江、玻璃の器の交易品
次の朝。
まだ涼しいうちにと、ナオトは入り江の奥で小舟の扱いを教わった。櫓はヒダカでは使ったことがなかった。難しくて、すぐに使いこなすというわけにはいかない。それでもナオトは、近くにいたフヨ人の梶取にいろいろと尋ねては試し、どうにか前に進むようになった。その梶取は、「この短い間に……」と感心して見ていた。
舟首に繋いだ綱を岸で曳くのはナオトにもできそうだった。
帆の扱いも覚えた。帆を破ったり壊したりしないように気を付けながら帆柱に素早く掛け外しするのは難しい。もし強い風の中で外すのが遅れたときにはどうすればいいかといった細かいことまで、ハヤテが熱心に教えてくれた。
――なるほど、帆柱に留めた紐を断つのか。小刀はいつでも使えるようにしておかなければだめだ……。
ナオトは、よく聞いて、よく見て、真似る。何をさせてもすぐに呑み込んだ。三、四日すると舟と荷の扱いに慣れて、要領よく取り回すようになった。
いまでは、ハヤテと二人ですぐ北にあるもう一つの入り江まで行き、覚えたてのフヨ語を片言だが使って、珍しい獣の毛皮やらワシの羽根やらを集めるのを手伝う。
フヨ人の猟師が持ち寄るこれらの品々は、ナオトは知らなかったのだが、たとえ海水に浸かっても、ヒダカまで持って帰ればコメや乾き物といい割り合いで交換できるという。
ヒダカではなかったことだが、ナオトは見知らぬ人たちとの交わりを楽しんでいた。
別の日には、少し遠出をして、ハヤテが設けた隠し江に丸一日掛けて行った。梶も取らせてもらった。舟を隠す場所はそのまま使えるか、いざというときのために方々に分けて隠してある食糧は無事か、辺りにイノシシの穴はないか、十数人が仮り寝するのに横になるところはあるかなどをいちいち確かめた。
嵐の後に再び訪れたときには、これらのこまごまとした調べを、ナオトは当然のように一人でこなした。気を付けろと教わった磯を舟で抜けるときには、海から突き出た大きな岩礁を指差して笑ってみせた。ハヤテが頼もしげに頷いた。
こうしてナオトは、そのような話をしたわけでもないのに、次のハンカ湖行きに同行することになった。
「ヨーゼフ爺さんは何をする人ですか?」
隠し江からの帰りにナオトが尋ねた。ハヤテは、何をいまさらという顔をした後で、「商人だ」と答えた。
――そうか、やはり商人か。
「しかし、ただ商いをするというだけではない。フヨの土地に通じていて、知っているとは思うが、そもそも吾れらがヒダカに運ぶフヨの鉄を見つけて来てくれたのはヨーゼフだ。商いのための使いを、西に馬で三日のところにあるフヨの都に行き来させしている」
「フヨの都ですか……?」
――この間、ドルジは都から帰ったところだった……。
「ああ。大きな町があって、フヨの王が住んでいる。
ヨーゼフはフヨで探したいろいろな珍しいものをこの入り江まで取り寄せて、品物を改めた後に西や東に運ばせている。ヒダカやアマに送り出すこともある。そうした中に玻璃というものがある。南の窯で作る透き通って見える器だ。面白いものができると都まで持っていかせるそうだ。
吾れは、ここに来るまで見たことがなかった。しかしいまは、それをヒダカに運んでいる。ナオト、お前も一度見せてもらったらいい」
「それは見せてもらいました。手に取ったこともあります。透き通っているのに気を取られて名は覚えられませんでしたが、ハリというのですか……。初めて見たとき、何か、心が吸い込まれるような気がしました」
「ハリでできた品々は、爺さんと同じような顔付きをした西からやってきた者たちが作っているらしい。フヨの南の海沿いに置いた窯の近くに、みなまとまって住んでいる。短い間だが、ヨーゼフ爺さんはそこにいたことがあるそうだ」
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