『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[074]ヨーゼフが入り江を選んだ事情
第3章 羌族のドルジ
第6節 ヨーゼフ兄弟が目指した東の地
[074] ■3話 ヨーゼフが入り江を選んだ事情
「ヨーゼフ、移り住んだフヨの海沿いというのはこの入り江のことですか?」
「……? そうだ。ここだ」
「ここにしようと、どうやって決めたのですか?」
――吾れの父は、象潟から善知鳥の浜にやって来て母と知り合った。なぜ北にやって来たのか、なぜ善知鳥だったのかと、吾れはいつも思っていた。それを尋ねる前に父はいなくなってしまった……。ヨーゼフはどうだったのだろう?
「ナオト、お前は口を開くたびにわしを驚かせる。そうだな、どうやってここを選んだのだったか……?」
「……」
しばらく考えた後に、ヨーゼフが答えた。
「話の通じる知り合いがいたから、ここにしたのだ。ヒダカに渡ろうとして、フヨの海際にいた弟のダーリオのところに行き来していた頃、わしはいつもこの近くを通った。妻と息子が住むヒンガン山脈の東の麓から、ここの南にあるダーリオの玻璃の窯場へと馬で通っていたのだ。
通い出して何年かすると、その旅の道筋に新しい宿ができた。その宿の近くでは、なぜかラクダを見ることがない。
そうと気付いてはいたが、いつも使う宿が別にあったので、泊ることはなかった。しかし、弟がアマ国に去っていなくなり、その弟からの便りを受け取ってからは、なぜか、前から気になっていたその宿を使うようになった。
もっと早くそうしていればと、わしは悔やんだ。主がソグド人だったのだ。
わしはいまやっている商いの話をし、宿の主は昔の商いについて話し、それから、宿を開いた事情を語った。それに、赤子の声のような甲高いラクダの鳴き声が耐えられないと言う。わしも同じだ。わしらはすぐに親しくなった。
サマルカンドから来た、いくつか年上のその元商人は、昔はフヨの金属を扱っていたという。この地で出会った別のソグド商人の娘に惹かれてフヨに住みはじめたが、やがて膝を悪くして旅の商いはきついとなったときに、住まいの近くに宿を開いた。
もともと、商いの旅に便利だからと選んだ土地だったので、商人相手の宿をはじめるにはいいところだった。いまは、父の商いを手伝っていたという息子が後を継いでいる。
その元の主が退いた後も、わしは海辺に来るたびに訪れて夜遅くまで話をした。わしにとっては楽しい夜だった。このフヨの入り江に蔵を置こうと決めたのは、その元商人の勧めがあったからだ。
『あの入り江の守りは堅い。フヨ王の従弟の狼加が護っているからな。それに、海と都の間の人の行き来がずいぶんと増えている。物が動いているためだ。これからもっと増えるだろう』
そう話してくれた元商人は、わしが蔵を置いた翌々年に亡くなった。しかし、その見立ては確かだった。ここに住んでみて、わしはそう思う」
「そうですか、亡くなったのですか……。一度お会いしてみたかったです」
「……。ソグドの商人たちはフヨの都と海沿いの土地とを行き来する。そうした者たちは、いまではみな、その商人宿を使う。宿を守る一家がソグド言葉を話すからだろう。それに旨い物を出す。わしは、西の様子が聞きたいときにはその宿に行って、話し相手を探す。どうだ、ナオト、一度そこに行ってみるか?」
「はい、行ってみたいです」
「会うことがないとはいえ、わしとウリエルとのやり取りは交易を通して続いている。匈奴のあの辺りは商いには都合のいい土地で、踝がつぶれた匈奴の男もウリエルの傍らで助けてくれている。今朝発ったセターレも『この後、寄ってみる』と言っていた。
ナオト、もしモンゴル高原でウリエルに出会うことがあれば、一家を挙げてお前をもてなすだろう。そのときは、犬の名前は何というと尋ねるといい。あれは犬好きだからな……」
匈奴のことをもっと聞きたそうにしているナオトに気付いて、「そう言えば……」と、匈奴なのに胡人のような名をもつ男の子がいたとヨーゼフが続けた。
「確か、エレグゼンといった」
ヨーゼフがフヨの海沿いに移る少し前、ウリエルが家の近くの川で溺れ掛けた子を救ったという話だった。ウリエルはいまも親しくしているはずだという。
「ウリエルに会えば、きっと、匈奴のエレグゼンに会わせてくれる」
じっと聞いていたナオトは、エレグゼンという耳慣れない名前をいつものように三度口にして覚え、妙なところを気に留めた。
――そうか、匈奴は馬に乗るのは得意でも、水には弱いのか……。
夕食の終りにナオトは、何の気なしに、前に浜で見た娘のことを話した。セターレが去って後、互いに気を許し、その日にあった身近なことなども話すようになっていた。それに、「わしと同族だ」と言われたというこの間のドルジの話が気になる。
――羌族の人々はヨーゼフと同じ一族なのだろうか……?
「羌族にはヨーゼフと似た人たちがいるのですか?」
「んっ、なぜそのようなことを訊く?」
「カケルの舟が去って間もない頃、岩場に座って浜を見ているとヨーゼフと同じ装いの娘が通りました。ソグド人のようにも、ドルジと同じ羌族のようにも見えました。でも、横顔はヒダカ人のようだった。フヨの入り江にも若い娘がいると、あのとき初めて知りました」
「はははっ、そうか。そういうことか……。この世は男と女でできている。生まれたばかりの者から死ぬ間際の者まで、男と女、いろいろといる。若者がいれば、娘もいる」
「それはそうですが……」
「ドルジは確かに羌族だが、わしと同じ一族なのではと思う……。それで、その浜の娘がどうしたのだ?」
「ヒダカの家の近くに住むハルかと思いました。それほどよく似ていました……」
「ハルというのは娘の名か?」
「ええ、そうです。冬が終わって来る春。海も野も、陽に輝き出す春です」
「……」
翌日、ナオトに知られないようにして、ヨーゼフは商いの方で少し手が空いているクルトに浜の娘を探すようにと頼んだ。このままでは、ナオトはいつかここを去ってしまう。何とか引き止めて、フヨや匈奴との交易を任せたかった。これまでナオトほどの若者を見たことはない。クルトやドルジともうまくやっている。この入り江で己の仕事を継ぐのはナオトだと、ヨーゼフは心に決めていた。
――そのつもりにさせるのに、いくら商いの話をしてもうまく運びそうにない。もしかすると、ナオトを繋ぎ止める綱は、浜で見たというその羌族の娘が握っているかもしれない……。