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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[193]牧地の守り
第8章 風雲、急を告げる
第3節 オンギン川の戦い
[193] ■4話 牧地の守り
その数日前。
「あと四日で月が満ちる」
エレグゼンがそう言った翌朝、匈奴の男たちは沙漠の戦場に向かった。見送った後、残った者たちとともにナオトは夏の牧地まで引き上げた。戦いを控えた興奮のためか、上気したようなエレグゼンやバフティヤールの顔が心に残った。
敵地に攻め込む草原の戦さでは、匈奴の妻たちはゲルをたたんで戦場の近くまで行く。進軍すればそれに合わせて進み、退けば一緒に退く。ときには弓矢を携えてともに戦い、または、その日の戦さから戻る夫を小陣を構え、火を焚いて待つ。
匈奴兵が被る高い帽子は、地平線の果てから無事に帰る己の姿を早く妻に見せるためだと、いつかバフティヤールが話してくれたことがある。それを聞いたときナオトは、なぜか、切ないような気持ちになった。
しかしこのたびは、攻めてきているのは漢軍の方だった。匈奴の兵は十騎ずつに分かれ、戦場近くで寝泊まりしている。前の年と同じところに夏の牧地を設けたメナヒムの部族の者たちは、急げば三、四日で家族のもとに戻れる。
戦いの場が近い分、匈奴兵の家族はいつ漢兵が現れるかもしれないという恐怖と背中合わせに過ごしている。城を持たない匈奴の子等の逃げ場は草原しかない。
メナヒムの部族は、しかし、逃げるつもりなど露ほどもない様子だった。漢兵が現れたときに備えて牧地内でゲルを配置し直し、老兵を中心に、どう防ぐかを残った者たちで定めた。いつもの丘の上り口に立つメナヒム一家のゲルは、守り易さを考えて東に移した。馬の牧場の位置を変え、干し草の置き場は何か所かに分けた。
ナオトも、そのままになっているエレグゼンのゲルに北の疎林近くから仮りに移って来て、当分の間、メナヒムの部族とともに過ごすことになった。
「何か吾れにできることはないか?」
とザヤに声を掛けると、
「ただ、そこにいてくれればいい。敵が攻めてきたときには呼びに行くから」
という応えが返ってきた。目に力を込めてそう言ったザヤが、
「戦いの前だから……」
と肩に付けている青銅製の飾りにナオトは目を奪われた。なんとそこには、あのヒダカの器と同じ炎のような模様が彫ってあった。
――あの土の器と同じだ。炎のように見える模様だ。もしかして、あの器はこのモンゴルの地で作られたのだろうか? まさか、吾れはそれゆえにこの地に呼び寄せられたのか……?
ザヤに由来を問うと、
「母の家では代々、戦さに出る夫や娘、息子をこの青銅製の飾りを付けて送り出す」
と、答えた。
――そうか、女も戦場に行くのか……。
「このたびは仕掛けられた戦さなので、部族の女の多くがこの営地に留まっている。守る戦いでは女の方が力が出る」
と、問わず語りにザヤが言った。
――そういうものなのか……。
ナオトは黙って耳を傾けていた。いずれにせよ、ナオトは戦さについて何も知らない。
営地の守りの中心は、馬に乗り、弓を引く匈奴の女たちだった。それを、傷を癒すために残った兵たちが助ける。すでに馬から下りた老兵も弓の狙いはまだまだ確かだった。
「持ち堪える。そうすればきっと援軍が駆けつける」
と、みなが信じて疑わなかった。
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