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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[111]鳥狩りに出て鉄囲炉裏を見る
第5章 モンゴル高原
第6節 鉄囲炉裏
[111] ■1話 鳥狩りに出て鉄囲炉裏を見る
匈奴は遊牧の民だ。五月と九月に一度ずつ営地を大きく変え、新たに移ってきた営地内の水場近くに建てたゲルの周囲で放牧する。
畜獣が草を食む牧地は、日々、四方へと移るが、日が沈む前には営地に戻る。ときには、玲羊が駆け抜けるような大草原で三、四日放牧し、そのまま次の原に進むこともある。そこでまた数日放牧しては、営地に戻る。こうして、ヒツジや馬を追いながら一年を過ごす。
夏の初めに雨が降れば、草は伸び、よく食べたヒツジや馬がよく乳を出して、冬に備えた食糧の蓄えが進む。そうでない年は、越すのに厳しい冬になる。匈奴にとってこれは、毎年続く、自然と折り合いを付ける戦いだった。
その間にオオカミとの攻防が起きる。これは知恵と力とに頼った、ヒツジと家族を守るためのもっと直接的な戦いだ。
しかし、ナオトが訪れた頃の匈奴にはもう一つ別の戦いがあった。漢という外敵との戦いだ。
だから匈奴の男も女も、放牧の合間に狩りをする。
狩りの前の晩、ゲルの内外で焚く火の周りで鏃を磨き、翌朝、馬を疾駆させて矢を放つ。シカやキジを狩り、野羊を狙い、ときにはオオカミを射つ。狩りはそのまま戦さへの備えになっていた。
後になって、エレグゼンが口にしたことがある。
「狩りの後には、悪しき我らを正し給えと神に祈る。我ら匈奴は自らの行いをよく弁えている。神に許されて狩りをすると知っているのだ。その神様は、ナオト、お前の神様と同じだろうか?」
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ある晴れた朝、エレグゼンたち四人は連れ立って鳥狩りに出た。
「バフティヤールは鳥を飼っている」
とエレグゼンが話すと、何か惹かれるところがあったのか、ナオトがいろいろと訊いてくる。そこで、ザヤの兄のバフティヤールを誘ったのだ。
「久しぶりに、北の山に行ってみるか」
とバフティヤールが言い、ナオトも付いていった。もう、馬上でエレグゼンたちに大きく遅れを取ることはなかった。
四人は夏の牧地を通って北に向かい、ゆっくりと丘を上って行った。右前を行く友に「ゾチロム」と呼び掛けた。
「バフティヤールの腕に止っている鳥は鷹ではないか?」
「そうだ。お前が知りたがっていたバフティヤールが飼うオオタカだ」
「そうか、バフティヤールが飼っているという鳥はタカか……。タカで狩りをするのか?」
「そうだ。初めてか?」
「いや、ヒダカにも鳥狩りはある。やはりタカを使う」
「そうか、ヒダカにもあるのか……?」
「ああ……。何を狩るのだ?」
「キジやオオトリだ。カモシカを追うこともある。何も見つからなければ野にいるリスのようなボルヒを狩る」
ナオトは、何か不思議な感じがした。
――タカでキジを狩るとは……。ヒダカ人のやることを匈奴もやるのか。そういえば、ヒダカと匈奴とで似ていることが他にもいろいろとある。
途中、群れて走り回る馬を見た。自分たちが乗る馬に比べてタテガミが長い。
「野の馬だ。去勢していないのでとくに夏には気性が荒い。馴らさなければ乗ることはできない」
エレグゼンがナオトに教えた。
「高い土地ならば、あそこに見えている雄の黒馬を馴らすのはむずかしい。息が切れて、ひどいときには乗りこなすはずのこちらが死んでしまう」
「キョセイとはなんだ?」
「雄馬に刃物を当てて、子を作れないようにすることだ。気性が穏やかになる。一年を通してだ。戦さの中で、ここぞというときに暴れることもなくなる。それに、もし良い馬が敵に奪われることがあっても、その子を増やすことができない」
――そうか。匈奴にとって、馬は武器なのだ……。
そう思ったが、ナオトは黙っていた。
左賢王の支配地にいるという安心感があった。ナオトは馬上で物思いに耽り、前を行くエレグゼンたちは同じような光景が続いてどこにいるのか見失い掛けていた。このような北までは滅多に来ない。そのとき、突然、四人はほぼ同時に、丘の向こうに一筋の煙を見た。エレグゼンの仲間のムンフが落ち着き払った声で言った。
「敵か?」
「違う」
エレグゼンが応えた。
「あれは烽火ではない。ゲルの煙でもない。鉄作りの焚火から上がる煙だ」
「鉄作りの焚火とはなんだ?」
ナオトが問うと、エレグゼンは黙した。知らないのではない。答えられないのだ。代わりにムンフが言った。
「丁零族が鉄を作るときに使う四角に囲った土の囲炉裏だ」
みな、馬を降りた。黙ったままのバフティヤールが、左腕に止めたタカを空に向けて放つ。
――丁零の鉄作りの囲炉裏……?
ナオトは心の中で反芻した。
「ここで目にしたことを決して人に話してはならない」
と、エレグゼンが固く口止めした。それは匈奴の若者たちへの戒めではなく、ナオトに向かって言った言葉だった。みながその意味を理解した。もし話せば、ナオトは死ぬことになる。
――鉄作りの作業場にある丁零の者たちはきっと、近づく蹄の音に気付いただろう。しかし、その馬に乗る者たちが誰かまではわかるまい……。
風下にいると確かめた上で、馬のいななきと蹄の響きに気を遣いなら、エレグゼンはそろりそろりと馬を引いて後ろに退いた。みながそれに倣う。
煙が朧になるほど離れたところで跳び乗ると、エレグゼンはゆっくりと西に進みだした。もと来た方角とは違っているが、誰もそれを口にしない。二つ目の丘が見えてきて、それを越すと、三人がほぼ同時に南に馬首を転じて、気が違ったように駆け出した。ナオトは、遅れまいと匈奴の若者たちを追った。
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