『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[067]ヨーゼフ兄弟が国を出た事情
第3章 羌族のドルジ
第5節 アルマトゥから来た男
[067] ■3話 ヨーゼフ兄弟が国を出た事情
イリ盆地のアルマトゥにいまも住み、ジュンガル盆地のコシを出てから二月近く掛けてこの北にあるハンカ湖に着いたヨーゼフの従弟のセターレは、四十年近く前、騒ぎに巻き込まれてサマルカンドを逃げ出したヨーゼフとダーリオの兄弟を救ったのだという。
それまでずっと黙って、どうにか話の筋を追っていたナオトが、これを訊いておかなければわからなくなると思い、思い切って口を開いた。
「訊いてもいいですか? 二人してサマルカンドから逃げ出した理由は何ですか?」
セターレと顔を見合わせたヨーゼフが、一つため息をついてから、いいだろうというように話し出した。
「商いのために訪れていたサマルカンドのバザールで売り値について言い争っているうちに、相手から豚と呼ばれてダーリオがかっとなったのだ。そして、持っていた小刀で刺し、誤って殺してしまった」
――ブタ? なんのことだろう……?
「……」
「役人は、是非など調べない。ただ捕まえる。そして、捕まれば殺される。そういうことだ。だから、わしら兄弟はすぐにその場から逃げた。西のバクトラには向かえない。役人はきっとそちらを探す。それで東に向かった」
三人でしばらく黙った後に、ヨーゼフが続けた。
「わしら兄弟は水もなしに五日間歩き通し、どうにかシル川を渡って、タシケントの町まで辿り着いた。
ちょうどそのとき、セターレはタシケントの叔父の店まで荷物を運んできていた。それこそ、隊商を率いるサルトポウのセターレだった。仕事を終えて、すぐにもアルマトゥに引き返そうと積み荷をまとめているところに、わしら二人が現れたのだ。
あのとき、セターレが驚いたようにして『おい、ダーリオ。あっ、ヨーゼフ兄さんも!』と言ったのをいまでも覚えている。わしは、これで助かったと思った」
「あの日のことは、吾れもよく覚えている。これまで何度も思い返した。土埃にまみれて店先に立つ二人の姿は、まるで沙漠の熱で揺らぐ蜃気楼のようだった……」
話を聞いたセターレは、二人に水を勧め、叔父の店の奥にある蔵に一晩匿った。次の朝早く、人足の衣装を着せて、前の日に発とうと用意してあった荷物を背に載せたラクダ二頭に取りつかせた。他に七人の人足と、二十二頭のラクダ、八頭のロバが一緒だった。一行はみなソグド語を話した。
行く先はジュンガル盆地のコシの国。途中、アルマトゥの町で二晩過ごす。そこまで十六日、合わせて四十日近い長い道のりだった。アルマトゥで人足もロバも替える。
「イシク・クルの湖の畔は避けた方がいいだろう。それに兄さんたちは、最終的にはコシの先のハミルまで行った方がいいかもしれない」
と、サルトポウのセターレが言った。
第5節4話[068]へ
前の話[066]に戻る