『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[006]姉のカエデを訪れる
第1章 西の海を渡る
第2節 突然の旅立ち
[006] ■3話 姉のカエデを訪れる
十三湊の浜から少し上る。
ナオトの村では見ることのない板戸をどうにか引き開けて呼ばわった。
「カエデ姉い……!」
「あれーっ、ナオト……?」
問うような声が奥の方でして、草履で土間を摺る足音が近づいてきた。
すっかり大人になった弟の突然の訪問に少し戸惑った姉だが、すぐに懐かしさがこみ上げ、両手を広げて覆いかぶさってきた。
たった五年ほどなのに、ナオトはもう子供ではないと思うカエデの鼻先に、ナオトは背負ってきた土産の品を軽々と背負子ごと差し出した。その一番上には、母が「これなら、何にでも使える」と喜んだ、前の年に焼いた鉢が括り付けてある。
「どうやってこの家を探したの?」
「浜で、カケルの家はと尋ねて回った」
およそ五年前。
嫁ぐ前の晩、カエデはナオトに「母を頼む」と言い、良人になるカケルとどうやって結ばれることになったかをナオトに話して聞かせた。傍らで黙って聞いていた母が、ときどき、独り言のようにしてカエデの話に割って入った。
出羽の象潟で生まれ育った父のオシトは、健やかに育った娘には「自分と同郷の者を」と心のうちで思っていたらしく、西の海沿いの各地から人が集まっている十三湊に嫁ぎ先を探した。象潟にいるオシトの兄にも、気に掛けておいてくれるようにとずいぶんと前から人伝てに頼んでいたようだ。
カエデに会ったことのないその伯父が、もう年頃のはずだと方々に声を掛けてくれて、樵仲間の子にこれはという者のあることを知った。
伯父が言付けた若者の名はカケル。「オシトは昔、カケルの頭を撫でたことがあるはずだ」と伝えてきたという。
父が二十年前に会ったことがあるというそのカケルが、いまはなんと、十三湊に移っているという。一月掛かって兄からの知らせが口伝いに届いたとき、父はすぐにも決めようと、喜び勇んで母に告げた。
「十三湊によさそうな男が見つかった!」
そのカケルについて詳しく聞かせてくれる前に、父は漁に出て、戻らぬ人となった。
そこまで話したところで姉が口を閉じた。姉弟二人してそっと母を見遣ると、何か思い出したか、母は涙を流しながら、しかし静かに笑っていた。
大きな泊の十三湊には、周囲の村々から人が集まる。善知鳥の里のカエデの顔見知りにも、嫁いで行った者が何人かいた。
そうした女たちの口から、色白で器量よしの働き者という評判が伝わっていたので、実は、十三湊にはいい相手が何人も見つかった。そのうちの一人が、いまは十三湊に落ち着いている象潟生まれのカケルだった。
どこでどう縁付いたものか、父と母と二人の伝手で、同じ男に行き当たった。
しかし、父が海に出たまま戻らないなどしたために、カエデが首を縦に振らず、また母も急がずに一年が過ぎた。
その後、母が勧める十三湊の男とは父が見つけてきたカケルだと知らされたカエデは、急に乗り気になり、母は一気に話を進めた。
心を寄せる幼馴染みがあったカエデは、長いこと、この里でいい人を探すと言って聞かなかったのだが、結局は、いなくなった父が見つけ、母が決めた海の男が待つ十三湊に、歩いて一日掛けて嫁いで行った。わずかな荷を背負い、会ったこともない男のもとへと母と二人で海沿いの道を行く姉の背中を、ようやく背が伸びはじめた年頃のナオトは、裏山の岩の上から手も振らずにじっと見送った。
「あんた、大きくなったねぇ。何尺あるの?」
姉の問いには応えずに、ナオトは初めて会う義兄の居所を訊いた。
「カエデ、兄さんはどこにいる?」
「南の野代の湊に荷を運んで行った。すぐに戻ると言っていたから、二日ほどすれば会えるから」
――自分が会えるのか、弟の吾れが会えるというのか?
ふと、そう思ったが口にはせず、「わかった」と頷いた。
「次に大陸に行くまではまだ間があるのか?」
「もうすぐ……。十日ぐらいしたら出ると思う」
「わかった。ならば、吾れは浜の様子を見に行く」
そう言い置いて姉の家を出て、あれこれ話したそうにしているカエデを尻目に、南に向かった。十三湊から少し足を延ばして、南に下ったところにある深浦の入り江とその先の岬を見ておこうと思ったのだ。西の海に突き出たその岬は、小さい頃からずっと気になっていたところだった。
――急いで行き来すれば三日は掛からないだろう……。
深浦は岩だらけの海岸で知られる。この岬を舟で大きく南へと回り込めば、もう出羽の野代湊は近い。野代からは、そのなお南にある父のふる里の象潟や由良を経由して南の高志やアマ国に向けて陸乗りの舟が出ていると聞く。
一方、十三湊には、海の向こうのフヨの入り江や息慎の入り江――いまのロシアの沿海地方ウラジオストック――に行く二つの丸木舟を横に並べた作りの大型の舟が集まる。
外海と湖を隔てる水戸の内側に広がる潟の東の岸にある湊は大きく、同じ泊とはいっても野代から南にある湊とは役割が違う。
後にカケルが話してくれたことだが、北の島にある渡まで一日で行けるかどうかが大きいのだという。
野代では、北の渡を経由地とするには遠すぎる。岩に守られた深浦の入り江でも同じだ。海を越えて北ヒダカから大陸に行くときには、一度、北の渡島に渡るのが常だった。そうやって一晩立ち寄り、または嵐を避けるための入り江を持たずにいきなり外海に舟出しようという舟長はこの辺りにはいないという。
深浦の入り江まで行くと、野代から来たと思われる言葉の違う男たちがいた。何とはなしに少し荒いように思ったが、気のせいかもしれない。
ナオトは話を聞こうと、近くに若衆宿はないかと舟寄せで尋ねた。声を掛けた相手が悪かったのか、聞こえても知らぬ振りをしている。
こんなことは、ナオトが住む善知鳥の里では決してない。やあやあというように近寄ってきて「どこから来た」「何をしに行く」「父の名は何という」「何が欲しい」「腹は減っていないか」など、何でも聞きたがる。
後で知ったのだが、同じヒダカ人でも、西のアマ国に行き来しはじめた者は、身なりはだんだんとよくなるのだが、代わりに口数が少なくなるという。
次の第3節1話[007]へ
前の話[005]に戻る
目次とあらすじへ