『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[009]カケルとその友シタゴウの冒険
第1章 西の海を渡る
第4節 三つの海境
[009] ■1話 カケルとその友シタゴウの冒険
十三湊から北の岬まで行ってそのなお北を眺めれば、夏風が飛沫を散らす波頭の先に陸地が見える。渡の岬――渡島半島――だ。この陸と陸の間の海をカケルらは海境と呼んでいる。
幼い頃から海とともに生きてきたカケルは、こちら側のヒダカとその北に続く陸地との間に、海境が三つあると知っている。そのうちの二つは自分の目で見た。三つ目があるというのは、昔、命を救われた息慎の陸の猟師から聞いた。
北の岬の向こうの岸は昔から渡と呼ばれている。それは、実際に行ってみればなるほどと頷ける。いやあ、ようやく渡った、だから渡なのだ。
しかし、そこに見えているからと軽く考えて臨むと、この海境の速い潮に捉えられて東に流され、悪くすると、十三湊には二度と生きては戻れない。
その一つ目の海境のはるか北にある二つ目の海境を渡ろうと企てたのは、もう十年も前のことだ。象潟から十三湊まで一緒に移ってきて、しかし、いまはもういない仕事仲間のシタゴウが言い出したことだった。
いまから考えれば、よくぞやろうと決めたものだと思う。なぜというほどのこともない。ただ単に、いつも臭いに悩まされる黒泥の交易に飽いて、何か違うことをやってみたかった。つまりは、二人とも若かったのだ。
北の島には黒泥などの交易品を積んで幾度となく渡った。しかし、これが島だとなぜわかる。その北の果てを見てやれという軽い気持ちからだった。昔、梶取をしていたという物知りの年寄りが声を潜めて話してくれた。
「北の島の先には、もう一つ別の大きな島がある……」
「本当か」と十三湊で尋ねて回ると、誰もが「決して行こうとするな」と応える。みなからそう言われて、
「ならば、行ってみよう」
となった。
命知らずの象潟生まれの若者二人は、十三湊の自分たちの小屋の周りを二日掛けて訪ねて歩き、かねて知り合いの古手の梶取や舟子から北の島の渡の先の、山当てと島当てとを聞き取った。
陸伝いに進もうというのだから、地乗り、陸乗りには違いない。しかし、肝心のその陸地がどういう地形をしているかを知らないのでは、陸乗りにならない。
――島や岩根によって潮の流れが違ってくる。島をどう見分けてその東西どちら側を進めばよいか、どの山を目印にするかは、どうしても聞き取っておかなければ……。
企ては無謀でも、やると決めた後のカケルたちはいつものように慎重だった。
扱い慣れた丸木舟にいつもより多めの藻塩と干した魚を積み、大きな水瓶を一つ、舟の真ん中にどんと据えて、いよいよ二人は十三湊を出た。
これから夏に向かうというのにまさかとは思ったが、「被れば潮で濡れずに済む」と勧められて、前に渡で求めた犬の毛皮を尻の下に敷いている。
シタゴウが工夫した二番目の帆は形が三角で、背丈一つ半ほどの高さがある。離れてみるとウミネコの片方の翼を切り取って広げたように見える。二本の竹を根元でしっかりと結び合わせて桁にし、三角に縫い合わせた厚手の麻布を斜交いに開く桁に張ったものだ。麻布の端を筒になるように縫い、そこに二本の竹の桁を通している。
広げた桁の上辺の布は綱を包むように縫ってあり、他に四列、三角の帆の中ほどにも綱を縫い留めて帆の強度を上げている。
桁には、黒竹と太い竹とを使っている。蔦の皮を念入りに巻いた黒竹には手綱を繋ぐ。真っ直ぐな太竹の桁はそのまま帆柱になる。
この帆柱は、舟の真ん中よりも少し前に井桁に組んだ二重の木の受けに埋めて、五本の張り綱で支えている。帆が風を受けると、丸い帆柱は井桁の受けの中で回る。
遊び心で帆柱のてっぺんから垂らした葉が付いたままのアケビの弦が、風でなびく。
「これで風向きがわかる」
と、シタゴウが笑った。
帆柱の上方から延ばした張り綱を、舟首に括り付けた貫木の左右の端に向けて二本、帆柱から舟尻寄りの舟縁に左右に渡した太い貫木に二本、それと、舟尻に向けて一本張ってある。
舟の外にはみ出すように据えた計三本の貫木は、右の縁から左の縁まで舟底に沿って一周りするように水を潜らせたツタで、横向きにしっかりと舟縁に縛り付けてある。舟尻の貫木にはカケルが、前の貫木にはシタゴウが寄り掛かるので、具合がいいようにと太さと形が決めてある。
曲げた黒竹の桁の上方二か所に留めた手綱を舟尻に向けて延ばし、帆柄の両端に留めている。この肩幅二つほどの長さの帆柄は、カケルが背を預ける貫木に添えて立てた手綱柱に結わえ付けてあり、それを支えに回る。
帆走するとき、舟尻に斜めに座ったカケルは左手で梶の柄を握りながら、風をうまく捉え、また逃がせるようにと右手で帆柄を動かして手綱を左右に出し入れし、帆の向きを変える。
「お前は、作ったこの吾れよりもずっとうまく帆を操る」
と、シタゴウがよく言っていた。
長い間の陸乗りの経験から、帆と櫂を巧みに使い分けて舟を進ませる二人の息は見事にぴたりと会い、「あの二人が舟を操るのを見たことがあるか」と、十三湊の浜人の口の端に上るほどだった。
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