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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[131]バイガル湖の西の畔
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第1節 バイガル湖を目指す
[131] ■5話 遠征八日目、バイガル湖の西の畔
夏の牧地を発って八日目の朝、高台から下って平地に出ると、一行は針路を西に転じた。メナヒムが半年ぶりに訪れるというこの草原は、単于の大事な夏の牧地の一つだった。
一団となって疎林の間を走り、ようやく北の湖の南に出た。木の間に見える碧い湖面が、西からの風に白く波打っている。
この近くには、冒頓単于と同じテュルク族の丁零――現在のウイグル――という部族が住む。もとは湖の近くで遊牧生活をしていたが、その一派が分かれて定住し、古くからのやり方で鉄を作りはじめた。ここは匈奴のいまの支配地の中で最も古く、また大きい鉄の産地で、いまでは匈奴と丁零とが入り交じって暮らしている。
その鉄は、しかし、生活に使う鉄製品や革製の短甲と組み合わせて使う鉄の小札、それに、もとは青銅製だったものを鉄に置き換えた三枚翼の鏃や矢筈などで、戦さで使う鉄剣はここにはない。
メナヒムは左賢王から、まずここで丁零の族長の話を聞けと言われていた。
噂では、丁零は西にいる部族と繋がりがあり、テュルク語を使う者同士ということで親しく交わっているという。タンヌオラの北の草原や、右賢王の支配地のアルタイよりもさらに北にあるハカスまで、時季を定めて、遠路、互いの嫁選びのために行き来しているらしい。
メナヒムの一行五騎は丁零の族長を訪ね、第一の目的地である北の湖の西南方の鉄生産の現場を見た。メナヒムが何度か会ったことのあるこの若い族長は、左賢王のもとからやってくる一行に話をしてくれと、単于から直接に言い遣っていた。
丁零が鉄窯と呼ぶ場所には、二人が伏して収まるほどの大きさの四角くて低い箱型の炉が間を広く取って三つ並んでいた。どれも上が開いていて、そこから木炭と砂鉄を入れて焼くという。
一行のうちでもナオトは並々ならぬ関心を示し、エレグゼンの助けを借りて言葉を補いながら、その族長や鉄作りの工人の頭を相手に延々と問答を続けた。族長は、はじめのうちこそ丁寧に応対していたが、終いにはナオトの追及に閉口し、両手を胸の前で合わせて「もう、それくらいにしてくれ」と言った。
もちろん、追及の意図などナオトにはない。それは目を見ればわかる。単に、とことん知りたいという、それだけのことだった。
夜、酒宴が設けられた。族長はメナヒムに右隣りの座を勧め、酒を注いだ。
酒の匂いを嗅いでメナヒムは、ふと、若い頃のことを思い出した。匈奴の東に移ってからは口にすることのなかった牛乳酒だった。メナヒムにとっては珍しく、「おおーっ」と言って微笑んだ。その場が一気に和んだ。
丁零の族長は、次の春にでも嫁選びに訪れたいと前からの約束を口にした。また、この前の漢との戦さで、危うく敵の矢を受けそうになった左賢王をメナヒムが救ったと伝え聞いていたのでそれとなく話を向けたが、メナヒムは酒をあおってどちらも聞き流した。
代わりに、「この酒はどこのものだ?」「そうかハカスか」「粉とコメはどうだ、足りているか?」など、鉄とはかかわりのないことを訊いたり話したりしていた。
みなが酔い、その場で寝た。
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