『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[021]浜に集まる人々
第1章 西の海を渡る
第7節 船出
[021] ■2話 浜に集まる人々
集まって来ていた浜人や女たちに向かってか、己に向けてか、舟子たちが声を上げる。
「よぉーっし!」
男たちが鎮まるのを待って、カケルが大きな声で「押すぞー!」
と、舟出を告げた。
ナオトを入れた舟子十二人が左右に分かれ、カケルの「えーんやーっ」の声に合わせて舟を浜から一気に「せーいっ」と押し出した。舟の底が砂地に敷いた細い丸太の列と擦れてキイキイと鳴る。
浜に残る男たちが二つ並んだ丸木舟の舟尻を押してそれを助ける。
最後に飛び乗ったカケルが振り向き、薄闇の中で両手を振って見送るカエデに向かって力強く右手を上げた。目と目が合う。
それも束の間、左右六人ずつの舟子が櫂を持つ手に体の重みを乗せて、「えいっ」とばかりに漕いで出た。ナオトも右の丸木舟の後ろから二番目の座で櫂を握っている。
カケルは左の梶柱に収めて固定した大きな梶を海に下ろして柄を左手で掴み、右手でしっかりと抑え付けている。
見送りの小舟が数艘、すでに湊を出て櫓を利かせ、思い思いに十三湖の内に散らばっていた。
そよ風を首筋に感じたカケルが大きな声で合図すると、タケ兄が指図して舟子三人で帆柱を立てた。
他の二人が両脇から梯子を掛ける。風を受けて、柱に括りつけてある帆がバタバタと音を立てている。残る舟子たちが張り綱の端を舟縁にある貫木に巻き付けてぴんと張る。先の五人はすでに二本目の帆柱に取り掛かっていた。
見事な動きだった。初めて見るナオトは、声も上げずに感心して見守っていた。
真っすぐに靄山を目指す。
――ここに戻るのはいつになるのだろう……?
ナオトは右手の岸辺を見回してふとそう思った。
――あの山の向こうは善知鳥の里だ。かあさんともっとゆっくり話をしておけばよかった。それにハルとも……。
舟は水戸口を越えて外海に出た。いつも強い風が吹いている北の海境に向かう。
潮路を過たずに帆走すれば、北の島の渡の舟寄せにはまだ陽のあるうちに着く。一晩を過ごす渡の湊には何でも揃っている。数日、風を待つこともあるが、たいていは翌日の未明に西に漕ぎ出す。
翌朝。舟宿で目が覚めたカケルは、すぐに濡らした指を立てて風を確かめた。
日が出る直前、風向きを見計らって渡を出て、帆を上げた。舟子たちが声を合わせ、力一杯、西に向かって漕ぐ。漕ぎ手にはまだ力が漲っている。
帆はすぐに風を受けてはらみ、舟は小島と大島の間を抜けて行く。どうにか、渡の岬の沖合いを北に向かう潮の微妙な流れに乗った。
大島を越えると南からほどよい風が来て、舟は奥尻島の南まで出た。もう、トキ爺が早めの夕餉の支度をはじめる頃合いだった。
一番揺れない舟の中ほどに立てた小屋はトキ爺が預かっている。
小屋の内に据えた棚の足に大きな瓶が四つ麻紐で括りつけてあり、そのうちの三つには真水が、残る一つには渡の舟宿で搗いてもらった玄米が入っている。その脇には、干した魚と土の付いたイモの俵、マメの入った麻袋、それに炭俵が三つ並んでいる。
左舟の中ほどで漕ぐトキ爺の持ち場は、一日に二度、雨に当たらず、波が来ても持っていかれることのない小屋の柱の脇に換わる。
井桁に組んだ重い木の支えが舟が揺れてもずれないように据えてあり、その中に、栗の木を刳り抜いた火鉢とそれにうまく合わせて作った深めの土鍋が重ねて置いてある。トキ爺はそこで煮炊きし、舟子の食事を用意する。
炭火の上で、鍋の中はもうグツグツと音を立てている。
「海に落とすなよ」
と声を掛けながらトキ爺は、竹の柄に大きなハマグリを結び付けたカイと呼ぶ道具を握り、三々五々、持ち場を離れてやってくる舟子たちが差し出す木の椀に魚の汁をすくって満たす。どうにか見つかるかというほど混じった薄褐色の玄米粒が椀の中で揺れている。
カケルの梶取りを助ける役目の若い舟子が、
「さっきからうまそうな匂いがしていた。トキ爺、この汁はコメ粥か?」
と、うれしそうな声を上げた。
「ああ、棒鱈と混ぜて煮た。舟出の祝いだ」
「おーっ!」
みなに聞こえるようにと、トキ爺がいつもの声を掛けた。
「代りもあるぞーっ!」
大方食べ終えたところで、ナオトの様子を見に側までやって来たカケルが少し先のトキ爺に目くばせした。独り言のようにして口にしたその声が、ナオトの耳に届く。
「昨日の晩からこの夕餉に備えている。わずかな木炭を使って干し魚を人数分炙るだけでも一仕事だ。この数の食事を狭い舟の上で手早く作れるのはトキ爺だけだ……」
それが聞こえたか、聞こえなかったか、トキ爺は麻布で拭った鍋に真水を少し注ぎ、マメを椀ですくって浸した。
「みなが食い終わったか終わらないかのうちに、もう明日の昼の食事の支度だ」
と、トキ爺がナオトの方を見て笑った。
食べる間、漕ぐ手を休めていても潮と風とで舟は進む。カケルが前に声を掛けながら、梶と帆を巧みに操って舟を奥尻島の西の沖合いにもって行った。ここまで出ると、まるで北に向う舟を助けるように、潮の流れがわずかに勢いを増す。
ずっと目で追っていた奥尻島は、もはやはるか南の濃い影に過ぎない。みなが手元の桶や手杓を使って丸木舟から水を掻き出し、最初の晩の仮り寝に備えた。
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