『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[116]ウリエルを訪ねる
第5章 モンゴル高原
第8節 モンゴル高原に住むヨーゼフの子、ウリエル
[116] ■1話 ウリエルを訪ねる
北から草原を渡ってくる風に、ぶるっと身震いするような日が続いていた。向こうが透けてみえるほどきれいに染まった黄色の葉はすでにほとんどが落ち、日の入りは日ごとに早くなっている。
「もうすぐ雪だ」
誰もがそう口にした。そう言いながら、白い雪害を恐れていた。稀にしか起きないが、もし草原に足首の深さまで雪が積もったらヒツジの餌が足りなくなり、家族の生き死ににかかわる。
そんなある日、メナヒムがエレグゼンのゲルの戸口を覆うヒツジの皮をひょいとめくって顔を見せた。
「これをナオトに」
そう言って、鹿の革で作った薄い内着と下穿きを放ってよこした。足元に紐が縫い付けてあり、結わえて留められるようになっている。
「明日、ナオトを連れてウリエルのもとに行け。そのとき、これを渡してくれ」
その革切れにはヘブライ語が記してあった。何が書いてあるのか推し量ることができず、エレグゼンには読み取れなかった。それにそもそも、エレグゼンはこうしたものを読もうとはしない。
エレグゼンはすぐに隣りのゲルまで下りて行ってナオトを呼んだ。
翌朝、顔を洗って戻ってきたナオトに「そろそろ出るか」と声を掛けた。「おおっ」と応じたナオトが、昨日渡された内着と下穿きを身に付け、背負子を抱えて外に出てきた。後ろから見ればまるで匈奴のようだ。
背負子には、数少ない身の回りの品に混じって、ソグドの文字を書き付けたヒツジの薄い革と蜂蜜を詰めて栓をした小ぶりの瓶が収まっている。エレグゼンが見つけてきた太い倒木を刳って作った大きな鉢も、ウリエルの妻に贈ろうと思い、入れた。寒くなったときのためにと、ヒツジの毛で作った薄手の叩き布を丸めて背負子に回し、四か所を革紐できつく結わえてある。
ウリエルの家は、ケルレン川の下流、左賢王の支配地の東にあった。その先には、ナオトが初めて匈奴に入ったときに見た、まるで草原に浮かんでいるようなダライ湖がある。メナヒムの冬の牧地からは急げば一日は掛からない。
道々、エレグゼンはどう話を切り出すかと考えていた。あまりにできすぎていて、ウリエルは信じないだろうと思った。馬を休めているとき、ナオトにそれを言うと、
「吾れがありのままを話してみる」
と応える。
「それがいいか」
と言ってはみたが、この二月ほどを思い返してみて、話のあまりに奇妙な成り行きにウリエルは面食らうだろうと、エレグゼンは思った。
「それにしてもなぁ……」
ウリエルのことはよく知っている。理の通った男だ。自分たちの話をそのまま信じるとはとても思えなかった。
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