『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[008]カケルが生まれた象潟と黒泥の交易
第1章 西の海を渡る
第3節 カケル
[008] ■2話 カケルが生まれた象潟と黒泥の交易
鳥見山――いまの鳥海山――は、西の海の沖合いからでもよく見える高い山だ。
大昔から、舟乗りはこれを大事な山当てとしてきた。西の海を陸に沿って南北に行き来するとき、鳥見山は欠くことのできない目印の一つだった。その目印に命を救われることもある。勢い、舟人はこの山を信仰の対象にした。
出羽の地は、いまでは秋田県と山形県とに分かれている。少し古めかしいが、出羽の国の奥と手前という意味で駅名などに羽後、羽前と付されていることがある。ただし、他の地名と同様に、この物語の同時代人――紀元前九十二年頃の列島の人々――がこの名で呼んでいたかについては疑問がある。
両県の境に日本海からせり上がっていくような山容を見せている標高二二三七メートルの成層火山が鳥海山、この物語でいう鳥見山である。いまからおよそ二千五百年前、噴火によって山体が崩壊して溶岩流が発生し、日本海沿岸の象潟方面にまで達して大小の流れ山を造った。
この海は、噴出した溶岩と土砂によって堰き止められ、やがて大きな潟ができた。古えの象潟湖である。
十七世紀の終わり――元禄二年――に俳聖芭蕉がネブの花を配して、象潟や雨に西施がねぶの花と詠み、寂しさに悲しみを加えてうらむがごとしと表現したのはこの湖とそこに浮かぶ九十九ともいわれる小島群周辺の風情である。
この潟湖は、西暦一八百四年に起きた地震による隆起のために干上がり、現在、これら流れ山の周囲は水田になっている。
カケルの父は、この古象潟湖の南で生まれ、そこからナソの川――いまの奈曽川――を遡った山間で育った。石の斧と楔と太綱とを使って何日も掛けて大木を伐り出し、筏に組んでナソの渓谷を下って海際で捌くというのが生業だった。
カケルは、幼いときから父を手伝い、木を象潟の浜まで運ぶ仕事をしていた。十一歳になったとき、丸太を納める先の親方に父が掛け合い、舟作りの仕事を手伝うことになった。同じ年頃の子が何人かいて、シタゴウとはそこで出会った。
器用なカケルは人を使うのも上手く、親方が手放せなくなるほどの腕利きに育った。
出会って数年して、舟を作るのだからその舟に乗ってみようと言い出したのはシタゴウだった。そこで、親方の許しを得て、仕事の合間に二人で自分たちの舟を作った。舟作りはいつもあるという仕事ではないので、親方にとっても好都合だった。
それを聞いたカケルの父が、見事な杉の大木を一本、山から運んできてくれた。
二人の舟は、粗削りではあっても、よく走った。
はじめは、長さが人の背丈ほどの櫂を舟の左右で漕いでいた。波を防ごうと舟首と舟尻を高くし、舟縁にも竹を編んだ垣を置いて波除けにしたので、海が少し荒れても苦にならなかった。
慣れてくると、シタゴウが見よう見真似で帆柱を立て、上下の桁にした太い竹を綱で繋いだ四角の帆を上げた。
舟周りの細工に優れるシタゴウは、すぐに「これではだめだ」と全く別の形の帆を考え出し、使いはじめた。
こうしてついには、遠く高志――いまの北陸地方――にまで足を延ばすようになった。
そのうちに、「ただ乗るだけではなく、どうせなら何か運ぼうか」という話になった。父は木を山から海に運んで暮らしを立てている。それならば、吾れらも何か運んでみるかという思い付きのようなものだった。
シタゴウが浜で聞いて回って、鏃に使う黒泥――いまでいうアスファルト――はどうだろうと言い出した。大昔から、出羽の奥の者たちは、黒泥が涌く池で集めてそれを他所の土地に舟で運ぶということをしてきたのだが、近頃はあまり見ないという。
小振りの土製の瓶に入れて蓋を被せ、南に運ぶ。その池近くの人々は、黒泥などいくらでも湧いて出るといったふうで、二人の他所者が足繁く出入りしても気にも留めず、畑仕事の手を止める者すらいない。二人はいつも、礼にと、浜から持ってきた乾き物を十枚ほど、黙って近くの草の上に笹に包んで置いてきた。
十個ほどの瓶を載せた荷車を川まで引いて行き、舟に乗せ換えて、荷車はそのままに象潟まで帰る。
黒泥の臭いには閉口した。しかし、自分たちの舟をなんとか操って南の高志まで運べば、結構いい値で引き取ってくれる。同じ交易をする者がいなかったためだ。
見返りとして、貝や魚の乾き物やいろいろな獣の毛皮、角、珍しい青い石や光る貝などが集まった。ときには、高志の南の丹後で出る真綿や珍しいアシギヌが手に入った。北に運べば、これらの品々には引き合いが絶えない。
象潟でカケルたちは知恵者として知られるようになり、これまで手が出なかった白い麻布の帆を使えるほどになった。
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