『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[088]匈奴の百人隊長
第4章 カケルの取引相手、匈奴
第3節 匈奴言葉の通詞、ドルジ
[088] ■4話 匈奴の百人隊長
「荷を二つ開けて、中身を塩袋に移した。許せ」
「なに、構わない。開けた俵を元に戻すのは難しい」
「川は浅い。ロバに載せたままで越せるだろう」
荷に間違いはないと得心したか、隊長がそう言った。
「それはいい。だが、初めての取引で、何としてもコメを濡らすわけにはいかない。みなで担いで渡ろう」
カケルの言葉に黒馬の隊長はにやりと笑い、右腕を差し出してきた。前もって作法を聞いていたカケルは、自分の右腕を差し出して微笑いながら相手の腕を掴んだ。その場をずっと支配していた沈黙と緊張が、そのときすっと緩んだ。
海を渡る俵は、ヒダカで使っているものに比べて一回り小さく作ってある。波に揺れる小舟の上で、一人で一つ、ようやく持てるかというほどの重さだった。
舟子の一人が俵二つを両肩に担ぎ上げてみせると、傍らで見つめる匈奴の騎兵たちが無言で「重たいか?」と問うた。そのヒダカ人の舟子が少し顎を引き、やはり無言で「ああ、重たい」と目で返した。
面白いことに、左右に分かれて並ぶ者たちがみな、ほとんど同時に微笑んだ。そしてその無言のやり取りを、後ろに控えるナオトが黙って見つめていた。
隊長が手を挙げて一声掛けると、荷車を扱う者はそのままにして、川向うの三騎が急いでやって来て馬から降りた。こちら側にいた中から五騎が遅れまいと馬を下り、ロバの背の俵を肩に移してゆっくりと川に向かった。
同じくカケルが声を掛け、舟子たちが一俵ずつ騎兵から受け取る。ナオトもそれに加わった。舟子五人に、匈奴兵が八人。これだけの人数がいれば、俵は一人一つにした方が早く済む。
本来は、カケルたちが向こう岸まで運ぶということで話は付いていた。しかし、匈奴兵がそれを手伝った。カケルも隊長もこちらの岸に留まり、周囲に目を配りながら、どれだけの時が掛かるものかと見計らっていた。
フヨの鋼は、ロバの背に載せたまま向こう岸に運んだ。水がいまほどの深さならば、俵を濡らさずに川を越せるとわかった。
川を渡っているときに、隣りを行くヒダカ人の舟子が、
「松花江なら、深くて速くてこうはいがねーな」
と、足元に気を付けながら口にした。ナオトが、
「その松花江という川はハルビンの近くを通るが?」
と尋ねると、その舟子が言った。
「これまでに吾れが渡った中で一番大きな川が松花江だ。土色の水が西のハルビンから流れてくる」
荷を負って川を渡ったカケルたち四人とすべての匈奴兵が川の北岸に集まり、舟子四人は対岸に引き返して帰り支度をはじめた。カケルの隣りに立ったハヤテが相手役から渡されたフヨの地図を広げている。匈奴の隊長がカケルを見て言った。
「松花江の流れがハルビンを過ぎると、左手に小山がみえてくる。川はそこで澱み、大きく右に曲がる。地図でいえばこの辺りだ。我ら輜重隊が駅を設けた佳木斯から見てはるか手前になる。
その小山と北に広がる原、それに、澱みから東の川筋は、いまのところ、我らが衛兵を配して護っている。できるものならば、次の荷は是非とも松花江の岸まで運んでもらいたい。その小山の東であればどの岸でも構わない。このたびのようにハンカ湖の北の岸から陸を来るのならば、何騎か護衛を出すこともできる」
ドルジがソグド語に訳してゆっくりとカケルに告げた。よく聞き取れなかったのか、カケルがナオトの方をちらっと見たので、輜重隊というのを荷車を引く部隊と考え、こう言ったと思うというようにナオトがヒダカ言葉で繰り返した。
「わかった。よく考えてから相手役に答えを伝えよう」
カケルはドルジに向かってソグド語で告げ、ドルジが匈奴言葉に直してうまく隊長に伝わったとみると、ドルジの腕を軽く叩いた。ナオトにも目で礼を言った。
ヒツジの毛を紡いだ糸を撚り、いくつもの色に染めて変わった模様に編み上げた袋が一つ、口を紐で縛って荷車に積んであった。フヨの鋼を俵から移し替えたのと同じ作りの袋だった。何か入っているらしい。ドルジがカケルにソグド語で言った。
「もとは、塩を入れる袋です」
――そうか、あれは塩袋か。ヨーゼフのものよりもずいぶん大きいが……。
そう思ったが、ナオトは口にはしなかった。
隊長がその重そうな袋を側まで持って来させて、紐を解いた。中には匈奴で作ったものらしい鉄の板が入っていた。前にカケルが、「いずれは、匈奴の鉄をコメに変えるということも考えよう」と口にしたのが伝わっていて、「ならばこれを」とわずかな量だが持って来てみたという。
「よかったら持ち帰ってくれ」
ドルジがそう訳すと、カケルは袋のすぼまった口から手を差し入れて中の棒を一本抜き出し、ハヤテに渡した。隊長を見て頷いたカケルが、
「ありがとう」
と、ヒダカの言葉で言った。
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