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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[086]ドルジが書き写したタナハ

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第3節 匈奴言葉の通詞、ドルジ
 
[086] ■2話 ドルジが書き写したタナハ
「ところで、ドルジ。もしよかったら、お前が入り江まで持ってきたと言うタナハにはどういういわれがあるのか聞かせてくれないか。
 吾れは、文字というものをフヨに来て初めて見た。ヨーゼフが、竹の板に彫った弟のダーリオからの便りと、ヒツジの革に書き留めて綴じた昔からの取引の記録を見せてくれた。どちらにもぎっしりと書いてあったが、とても同じ文字とは思えないほど違っていた。
 お前が話してくれたタナハという巻物の方はどうなのかと、あの後、ずっと気になっていた……」
「そうか。もうこれといって話すこともないのだが……。タナハは文字を書いた薄いヒツジの革を細い木のしん二本に両端から巻いたものだ。そのうちに見せてやる。書いてある文字は、おそらく、お前が見せてもらったというダーリオからの便りの文字と同じものだ。胡人ヘブライが使う字だ。
 吾れの一族は、いくつかの家族からなる大きな家族だ。その大きな家族に昔から伝わってきたのがタナハだ。合わせれば五巻はあったと思うが、たぶん、書いてあることはみな同じだろう。だが、羌族とはいっても、それを見たことがないという者も多いと思う。
 その大きな家族の息子たちのうちで最も賢いと見込まれた者は、それを別の革に書き写す役目を与えられる。そうして、タナハが途絶えることのないようにしてある」
「お前も書き写すことになっていたのか?」
「いや、吾れはやらなくていいと言われていた。吾れは一族の他の子たちとは違っていたのだ。吾れがタナハを読み、書き写したりしたのは、ただ字を覚えるためだけだ。
 我ら一族の長老が子等にタナハを読んで聞かせてそれがどういうことかを教わる集まりがあったが、吾れは行かないでいいと、祖父から言われた。おそらく父も同じことを言われて育ったのだと思う。
 北に逃がれて来てから出会ったフヨのどの羌族にもタナハは伝わっていなかった。

 祖父が亡くなった後に、父から、『少し落ち着いたところで、お前が書き写してなんとか周りに伝えないか』と言われた。だが、騎馬隊に入ってエンとの戦さに出たのでそのままになってしまった。祖父はもう亡くなって、いない。吾れの父はこれでタナハは途絶えてしまうと諦めたのだろうな……」
「……」
「タナハを読むこともあって、羌族にはソグド語を解する者が多いのだと思う。似た言葉が多い。それに、何といっても同じ文字を使う。お前には違って見えたろうが、実は同じ字だ」
「アラム文字というと、ヨーゼフが教えてくれた」
「そうか、あの字はアラム文字というのか。知らなかった……。ナオト、字をどう書くのか見てみたいだろう?」
「ああ、見たい。だが、なぜそう思う?」
「お前はそういう男だ。側にいればわかる。前に、荷車の周りを見て回って、いろいろいじっていたことがあるだろう?」
「……そんなことがあったか?」
「ああ、あった」
 と笑ったドルジが、手にした長い枝を使って地面に何か書き出した。右からはじめて左で終わるらしい。二続ふたつづきのあいだが少しいている。ドルジの顔付きは真剣だった。
「ドルジ、何と書いたのだ?」
「ヒンガンの山に 薄い日が沈む、と書いた」
 ドルジはソグド語に直したものを口にした。
「これでそういう意味になるのか?」
「そうだ。そんなことが書いてあると先に教えておけば、胡人の言葉が読める者なら、そう読む」
「胡人の言葉か……。もう少し続けてくれないか」
「よし、見ていろ……」
 上に続けて、ドルジは何文字かずつあいだを空けて並べ、位置を下にずらしながら書いた後に、
「北からの風が吹いて 亡き父の横顔を想う 黒い馬が一頭 月に向かって駆ける はたまぼろしかと 老いた目が追う」
 と、胡人こじんの言葉のまま読み上げた。ソグド語と似ているとはとても思えなかった。

 はじめ、ドルジの手とひじの動きや書きぶりをじっと見ていたナオトは、聞いても意味のわからない音の響きが面白いと思い静かに耳を傾けていたが、次にそれをソグド語に直してくれて、書いてある中身がわかってみると、その後がどう続くのかと気になった。
「ドルジ、もし続きがあるなら、すべて書いてみてくれないか」
 と、頼んだ。不思議そうな顔を見せて、しかし、「いいだろう」とか呟きながら、ドルジが続けた。
「そのたて髪を 淡い月明かりが照らす ひづめに地が鳴り 遅れて耳に届く  永い眠りを もはや、こばまず」
 どうだ、という顔でドルジが見るので訊いた。
「ドルジ、お前、それをいま思い付いて書いたのか?」
「……。どういう意味だ?」
「いま、胡人の言葉で頭に浮かんだことをそのまま書いたのか?」
「ああ、そのことか……。いいや、これは吾れの祖父が死ぬ前に残した言葉だ。何日かせったときに、他にすることもないからといろいろ考えた後で吾れに書き取らせて、書き終えた薄革をそのままくれた。そのとき、『きっとこの地でタナハを書き写せよ』と言った。考えてみると、それが祖父の最期の言葉だ……」
「そうか……。偉い人だな、お前の爺さんは。すまないが、もう一度上から読んでくれないか。ゆっくりと聞いてみたい」

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