『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[037]土の鈴
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第5節 バクトリアについて
[037] ■3話 土の鈴
しばらく二人して黙った後に、ナオトの胸を指差しながら、
「お前は何になりたいのだ?」
と、ヨーゼフ爺さんが唐突に訊いた。
「器を作る工人」
身振りから何を訊かれたかわかったナオトは、間を置かずに答えた。ヒダカの言葉に同じく身振りを付けただけなので、通じたかどうかは怪しい。
「お前には何ができる?」
と、ヨーゼフが重ねて訊いた。ナオトは先ほど爺さんが手にしていた赤い汁を注いだ小ぶりの土の器を見ながら答えた。
「いい器が作れます。それよりもいいものを」
老人は、そうかというふうに二度頷き、少し考えた後で尻に敷いていたヒツジの毛の織物を台の上に引っぱり上げた。
「するとナオト、お前はこういう織物を見るのが好きだろう。これは塩を入れておいたり、ラクダや馬に塩を与えたりするときに使う袋だ。獣は言うことを聞かない。とりわけウシはそうだ。だが、塩を与えるときにはヒツジでも馬でもウシでも、みな寄ってくる」
「そうか、これは袋になっているのですね?」
「ああ、塩袋という。遊牧の民の女が冬の間に織る。模様は部族によって違う。織り手によっても違う。ラクダなどは塩を探して鼻面を突っ込もうとするので、入らないようにと袋の口が小さくなっている。ほら、この小さく突き出た四角い部分がそうだ。ラクダに噛まれることがないように厚手に織って指を守っている。面白いだろう」
――塩を入れる袋。ナマクダン、ナマクダン、ナマクダン。
何かを思い出すように、ヨーゼフがしみじみと言った。
「塩は、遊牧の民にとっては大切な品なのだ……」
翌朝。
興奮のためか早くに目覚めたナオトは、ひとつ伸びをし、板戸を押して外に出た。未明の薄闇の中、耳を澄ましてせせらぎの音を探したが、波音に消されて聞こえない。
ヨーゼフの家から坂を少し上ると、下の方に川が見えた。小径を辿って川原まで下り、水を手にすくって匂いを確かめてから顔を洗い、口を漱いだ。川に沿って海から飛んで来たらしい鴎が大きな岩の上で羽を休め、こちらを見ている。
同じ小径を坂の上まで戻って来て西に回り、しばらくその丘を上る。
左手に崖のように切り立ったところがあった。よく見るといろいろな土が層になっている。その中によさそうな褐色の粘土の層があるのを見つけ、少し取って指先で捏ねるとやはり粘りがある。これでいい。帰りの道端で白い小粒の石を二、三個拾った。
戻ると、水瓶を探した。
土を念入りに捏ねて丸め、薄く鈴の形に整えて、縦に切った溝から丸い小石を一個選んで中に滑らせた。割れないほどに厚く、いい音が出るように薄く、という加減が難しい。てっぺんを指で寄せて紐を通す穴を少し大きめに作り、水で濡らした手で全体を撫でて形を整えた。
しばらく台において水が飛ぶのを待つ。
――まあ、一晩寝かせるまでもないだろう。
前夜、ヨーゼフが鉄鍋を掛けていたカマドの薪に勝手に火を付けて土の鈴を焼いた。器を焼きはじめてもう八年になる。火のことはよく知っている。木炭はないが、カマドの火の色を見る限り、勢いは十分だった。
焼き上がったところで灰と煤を落とした。知らない土を使った割にはまあまあの出来だった。ここなら、善知鳥の里と同じような器がいくつでも作れると、ふと思った。
土鈴が冷めはじめたところで、奥に物音がした。ヨーゼフ爺さんがようやく起き出したらしい。ナオトは鈴を振って、カラン、カランと二回鳴らした。
「昨日話してくれたウシとかヒツジとかはどういう生き物ですか?」
「そうか。お前はまだどちらも見たことがないのか……。ウシもヒツジも人が暮らしに役立てようと飼う生き物、畜獣だ。他に、馬に似て、しかしもっと小さいロバやヤギがいる。ウシの頭にはシカのように角が生えているがシカよりはずっと大きい。乳を搾るための生き物だが、この辺りではあまり見ないな。
ヒツジは、馬よりも小さいが長い巻き毛で覆われているので太って見える。何年も掛けて長く伸ばしたところで刈り取り、その毛を叩き布や糸にして使う。お前が敷いているその塩袋も、もとはヒツジの毛を紡いで作る糸を編んだものだ。それから、先刻飲んだ乳はヤギから搾ったものだ」
――そういえば、昨日の朝も聞いた。ヤギ、ヤギ、ヤギの乳。
「……。吾れの知らないことばかりです」
「それはそうだ、ナオト。何しろ、海のこちら側に渡ってきたのだからな。アマ国に渡った弟のダーリオも、初めて見るものばかりだと便りしてくれた。それと同じことだ。これからいろいろと見て回って、少しずつ慣れればいい」
「はい!」
第5節4話[038]へ
前の話[036]に戻る