『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[062]嵐の後の浜の朝
第3章 羌族のドルジ
第4節 入り江の嵐
[062] ■1話 嵐の後の浜の朝
ドルジと龍の岩山に出掛けた翌朝。
ハヤテは嵐に備えようとみなを浜の仮り屋に集め、荷をまとめてヨーゼフの蔵に運んだ。その後に、仮り屋の骨組みを外してハヤテの冬の家の広い物置きに押し込んだ。浜には何も残さなかった。
こういうとき、嵐が来ればどれほどひどいことになるかをよく知る元舟乗りたちの動きは本当に素早く、頼りになる。
夏の間、ハヤテは浜近くの丘に立てた大きめの仮小屋に住んでいる。ヒダカから来た舟子たちもその近くの小屋で寝起きする。これとは別に、北の川近くの小山の陰に冬の家がある。初めて訪れ、「立派な家だ」と驚くナオトに向かってハヤテが、
「ソグド商人の家のように丸太を何本も組んだしっかりとした作りなのだが、冬は薄ら寒くて過ごしにくい。クマの毛皮ぐらいでは助けにならない」
と言った。ハヤテは、入り江の人たちが息慎の家と呼ぶ住まいの方がずっと暖かいからと、冬には好んでそちらで過ごしているという。腰の深さに四角い穴を掘って柱を立て、梁を支えに杉皮と土と草で覆ったその家は、丸い形を四角に変えただけで、ヒダカのものと似ているという。
ドルジがロバを引いてきて手伝ってくれた。二頭のロバは賢く、周囲が急いでいるのを感じ取ってか、いつもよりも動きが速い。
夕方から、フヨに来て初めてのひどい嵐になった。
――カケルの舟はもう十三湊を出ただろうか。もし海の上だったら大変だ……。
嵐が去った翌朝。夜明け近くに目が覚めて、ナオトは外に出た。
坂の下を眺めると、朧に紅く見える日が島の右肩から昇るところだった。それを目の端に捉えながら坂道を駆け下りる。ふと、何か聞き慣れない音がして岩場をじっと見ると、近くに馬を止めたドルジが薄闇の中に立っていた。
その音に誘われるようにして、ナオトは砂浜を急いだ。背中を見せたドルジが、手にした細い竹の筒を唇の下に当てて吹き、音を出している。波音がそれに重なる。振り返ってナオトに気付くと、吹くのを止めて手を挙げた。
「おう、ナオト。昨日の嵐でお前も眠れなかったか?」
それには答えずに訊いた。
「ドルジ、それは何だ?」
「これか、笛という。お前に見せてやってくれと前から言われていたのを思い出して持ってきた」
「フエ……。ヨーゼフに言われたのか?」
「うん。笛は初めて見るのか?」
「ああ、初めて見る。聴くのも初めてだ」
「そうか……。嵐の後の浜にはいろいろなものが落ちているな」
訊くと、浜の北からここまで馬に任せて駆けてみたという。
「ドルジ、そのフエの音を、もう一度聴かせてくれないか……」
黙ってナオトを見遣った後で、革の袋に戻そうとしていた笛を口に当ててドルジがしばらく吹いた。ナオトは、なぜか、涙しそうになった。
――昨日の夜、雨と風の音でよく眠れなかったためだろうか?
「笛の音の一続きを曲という。これは、大昔から羌族に伝わる曲だ。どこかの川の名前が付いている。」
「川の名が付いたキョクか……」
ナオトは、なぜか、柳の里からの帰りに岩棚に横になって見下ろした、星明りに白く光る一筋の川の流れを思い出した。
「その笛はどうしたのだ。自分で作ったのか?」
「いや、これは父が作ったものだ。気に入っている一本だと言って、この入り江に来るときにくれた。父は笛がうまい。父が作った曲もある」
「笛か……」
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