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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[089]カケルと別れて匈奴国へ

第4章 カケルの取引相手、匈奴
第4節 ナオト、モンゴル高原に向かう
 
[089] ■1話 カケルと別れて匈奴国へ         【BC92年8月】
 ――匈奴だ……。
 先ほど、七騎が横一列に並んだとき、ナオトの気持ちは決まった。
 やはり、フヨの入り江で見た、あの長い皮衣をまとい、馬を引いて去った四人のほがらかな若者たちは匈奴だった。ヨーゼフの息子のウリエルが住むという遠い土地からフヨの入り江まで、匈奴ははるばるやって来ていたのだ。
 ――いま、ハルビンという土地の名が二度出た。ならば、ヨーゼフの言う通り、ここから真西に行けば匈奴に行き着くのではないか……。
 取引が終わると、舟で運んで来たコメと鋼の俵を二台の荷車に分けて載せ、大きな叩き布フェルトで覆って麻縄でくくり付けると、匈奴の「荷車を引く部隊」は振り向きもせずに去って行った。
 後姿うしろすがたを見送ったカケルたちは、白棱河ハクレンビラの舟寄せまで戻った。ここで去るフヨ人に銀の粒を渡し、「次も頼む」と約束して、ロバ六頭とともに送り出した。
「途中まで送ろう」
 と、ドルジがロバの列の脇に付き、歩き出した。その背中に、カケルが声を掛ける。
「ドルジ、あわてるまでもないぞ。日は高い。ゆっくりと戻れ」
 風はいい。日も高い。このまま会所まで戻るのだろうかとみなが話しはじめると、
「いま出れば、着く頃には間違いなく日が暮れている。それでも行くか?」
 と、ハヤテがみなに訊いた。いまは湖面は穏やかだ。しかし、漕ぎ出せば何が起きるかわからない。湖とはいえ、渡るのに一日掛かるほど大きく、侮れない。そのときカケルが言った。
「まずは腹ごしらえだ。その後に舟出ふなでする」
 ――西の海を渡るとき、海の上では昼も夜もない。星さえ出ていれば、この湖ならば、夜中であっても会所までは戻れる。
 カケルの一言で、急ぐことなく、しかし今日のうちにこの舟寄せを出ると決まった。
 でき上がるのが待ちきれないようにして、みながかゆをすすり出した。いままで気が張っていたためだろう。急に腹がいてきて、立っていられないほどだった。
 少し落ち着いてきたとき、ナオトが思い切って切り出した。
「カケルにいれはここでハヤテやカケルと別れて、匈奴に行こうと思います……」
 少しのあいだ、カケルは息を呑んだ。その隣りに座るハヤテは、何が起きたかと目をみはっている。
「……。匈奴に行くとは、匈奴まで旅をするということか?」
 カケルが落ち着き払っていた。
 ――無謀なことは吾れも何度かやった。気持ちはわからないでもない。
「そうです。そして匈奴の国を見て回ります」
「匈奴はヒダカびととは違うぞ。さっき見ただろう。一つ間違えば殺されてしまうかもしれない」
「……」
「よく考えてみたらどうだ。また今度ということもある」
「……。カケル兄、いま行かなければ、もう二度と行けないような気がします」
 ――あのときの吾れやシタゴウと同じだ。そして、ナオトはたぶん正しい。いま行かなければ二度と行けないだろう。
「……」
「……」
 みな、押し黙った。それにしても、なぜ匈奴なのだ。みながそういう顔をしている。
 ――あの荒ぶる姿を、いましがた目にしたばかりではないか。それでも匈奴へ行きたいと言うのか……。
 ナオトは、ハヤテに「勝手を言ってすまない」とあやまり、ハルビンまでの日数を訊いた。ハヤテは、心底、ナオトが気掛かりなようで、細かなところまで思いって話してくれた。
「ハルビンか……。さっきの穆棱河ムレンビラまで戻って西に一山越えると松花江スンガリウラという大きな川に出る。東に向かって流れている。たぶん、お前がこれまで見た中では一番大きな川だ。そこまでは歩いて四日。
 ハルビンは松花江のこちら側なので、匈奴に行くにはその川を北に渡ることになる。渡れるところを探しながら川沿いに四、五日西に行くから、ハルビンの北までは合わせて九日ほどだろう。お前の脚ならばそこまでは掛からないかもしれない。
 土地の者はここからハルビンまでは千里とも千五百里とも言うが、歩いて行く者はそうはいないだろうな。吾れは一度だけ、その辺りを馬で通ったことがある。途中に高い山はないが、川幅のある松花江を渡るのは厄介だ。
 穆棱河を渡った先の山里には息慎ソクシンが住むという。荒々しい者たちだ。人里には近付かないようにした方がいい。気を付けて行けよ……」
 いま、ナオトが進もうとしている先を考えると、なぜか泣けてくる。舟子に涙を見せるわけにはいかないと、できるだけナオトを目のはしに入れないようにしていたカケルは、わずかに頷いてナオトの腕を掴み、背中を押して送り出した。ナオトは、何か切ないような気持ちになった。

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