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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[035]ナオトの大陸第二日

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第5節 バクトリア
 
[035] ■1話 ナオトの大陸第二日
 西の海を渡った次の朝、またヌーンが出て、ヨーゼフが、
山羊ヤギというつののあるけものの乳を温めたものだ」
 と言う白い汁と一緒に食べた。
 ――ヤギ? シカのようなものだろうか?
 頬張りながら、ヒダカ言葉でナオトが何気なくいた。
「このフヨの入り江の北には何があるのですか?」
 ヨーゼフ爺さんは、一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、
息慎ソクシンおか、それから、やや西寄りにはモンゴル」
 と、すぐに答えた。
 ――きたの音と意味を知っているのだ。ソクシンとは、一昨日おととい、海の上から見えていたあの大きな島の辺りのことだろう。では、モンゴルとは何だろう?
「ソクシンというのはどういう意味ですか?」
「詳しくは知らないが、昔、この地に住んでいた人々のことだそうだ。いまは、北に移っている。大昔の地名がそのまま、いまに残っているのだろう。ソクシンというのは他には聞かない」
「そうですか。では、モンゴルはどうですか? 国、それとも人ですか?」
「モンゴルというのは土地の名だ。モンゴル高原。高いところにある広い広い土地だ。そこには匈奴ヒョンヌという国がある。その地に住む人も、同じく匈奴と呼ばれている」
 ナオトには、よく理解できなかった。
「ヒョンヌという人々が国を作って、モンゴル高原に住んでいるのですか?」
 ヒダカ言葉でなおも訊くと、ヨーゼフ爺さんは何を問われたのかよくわからなかったのだろう。それには応えずに飲み物を勧めた。
「アイラグを少し飲んでみるか?」
 ――それとも、何か言いにくいことでもあるのだろうか?
 ナオトにはそうも思えた。
 ――では、いまは訊かないでおこう……。
「匈奴か、一度行ってみたいな」
「……」

「吾れは、ちょっと浜の様子を見てきます」
 そう告げてナオトは外に出た。後ろに、ヨーゼフが何か呼ばわる気配がしたが、構わず坂道を駆け下りた。
 ――入り舟を待っているのだろうか、あるいは、舟はすでに着いたのか?
 浜の一角に昨日見なかった顔付きの者たちが大勢集まっていた。狂ったように大きな声を上げて、誰か聞き取れる人がいるのだろうかと思うほどの早口で何かを口々にわめいていた。
 一通り口にした後で、黙る。すると、別の者が同じような調子で喚き出す。終わるのを待たずに畳み掛けるように話し出す者もいる。こうしたやり取りを続けているうちに、両手を高く挙げたかと思うと何とかと口にした。何か考えがあるのだろう、みなが「はっはっは」と大笑いし、互いの手を握った。
 ナオトがさらに近づこうとすると、一同が気付いて振り向き、手を動かしながら何だかんだと大声で叫んだ。形相が怖い。
 ――ここには来るなということらしい。それにしても、みなが使っているのはどこの言葉なのだろう?
 ふと思い付いて、ナオトは、昨日覚えたばかりのダリャーを口にしてみた。
「ダリャー」
「ダリャー……? ダリャーか?」
「うん、ダリャー」
 その男は、上から下までナオトを眺め回し、少し笑ったような様子を見せると、「ダリャー」と口にしながら、海を指差した。
 ――そうか海か。
 そう思った瞬間、
「いや、アプだ」
 と言った。「アプ」と大きく繰り返すと、男は、今度は確かに微笑ほほえんで、浜のやや北の山が迫るところを指差した。
「アプならばあそこだ」
 昨日、舟子たちと一緒に体を洗った水場の辺りだ。
 ――やっぱりそうか。アプとは水のことだ。どこか違っているような気もするけど、この顔付きの違う男たちはみな、ソグド語を話している……。
「ありがとう」
 ヒダカ言葉で言って、ナオトは水場の方角に歩き出した。
 ――昨日はよく見なかったが、この浜も善知鳥の浜と同じように、山から水を引いて水場にしているのだ。
 男が後ろで何とかと呼び掛けたが、その意味はナオトにはわからなかった。
「まあ、そのうちに」
 振り返ってヒダカ語で返しながら、ナオトは、大陸で迎えた初めての朝の海辺の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

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