『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[142]第二の炉、鉄囲炉裏
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第5節 トゥバの鉄窯
[142] ■4話 第二の炉、鉄囲炉裏
族長が案内してくれた二つ目の小屋は少し小ぶりだった。気配はしたが、工人の姿は見えない。小屋の真ん中に平たい石が二つ、拳二つ分ほど離して並べてあり、その間で燠がくすぶっていた。これが炉なのだろう。
――おそらく、先ほどのごつごつした黒い塊をあの二つの石の間で熱するのだ。
片方の石のすぐ脇に、土煉瓦が背丈ほどの高さに積み上げてある。その壁の裏から二枚石の炉に向けて溝が切ってあり、フイゴで風を炉の真ん中まで送る仕掛けになっていると族長が教えてくれた。
――煉瓦の壁でフイゴを使う工人を守っている。こちらも相当に熱くなるからだ……。
いま、炉の中に木炭を入れて燃やしはじめた。
――マツ炭だ。どの木で焼いた木炭よりも熱く燃える……。
炉の前に、人がひとり腰を下ろせるような木の台があり、その右手には鉄製と思われる平べったい塊が置いてある。人の頭よりも少し大きいその塊は上が平らになっていて、何かを置く台のように見える。
ナオトはその二つ目の小屋の中を、他にどんな道具があるのかと見回した。
きちんと整えられた大ぶりの棚があって、その上の段には太さと長さがまちまちの木と鉄の棒が何本も置いてあった。鉄の棒の一方の端には細工がしてあって、何に使うものか、小さい鉄の板のようなものが付いている。他に、丸い取っ手が付いた別の鉄棒もある。
棚の二段目には、大きさの違うくすんだ緑色の石が何個も並んでいた。どこかで見たような気がするが、それがどこだったか、ナオトには思い出せなかった。
一番下の段には、いままで見たことがない鉄棒二本を交差させた長い重たそうな道具が、短いものと長いものとを合わせて六つ並べてあった。一方の端の形と反対の端にある丸い取っ手から見て、何かを挟んで両手で掴むものらしい。
いつの間にか、炉の中の木炭は熱く燃えていた。先ほど族長がみせてくれた小さな黒い塊を後ろの工人に手渡すと、その者は炉の傍らに進み出て、ナオトが見ていた鉄棒二本を組み合わせた道具を両手で扱って塊を挟み、赤く燃える炭火の中にそろりと置いた。
煉瓦の壁の向こうに声を掛けると、何とかと返事があり、フイゴで風を送りはじめた。木炭はいよいよ熱く炎を上げて燃え出した。その間も、勢いよく風を送り続ける。
しばらく見守っていると、黒い塊が黄色に輝くほどに熱くなってきた。
座って待っていた工人が、黄色に熱した鉄の塊を先ほどの鉄ばさみで掴んで炉のそばに据えた平たい金属の台の上に慎重に置くと、左手に持った小ぶりの鉄ばさみで押さえ付けながら、重たそうな鉄の鎚を右手で振り上げてその塊に向けて打ち下ろした。大きな塊がいくつかに割れた。そのうちで一番大きなものを選んで、また打つ。
離れて見ていたナオトたちのところにまで、何かの欠片が飛んできた。みなが「危ない」とそれを避けて、一歩二歩と後ろに下がった。同じものがそこら中に転がっていると気付いたナオトは二、三片拾い、舐めてみた。頭の芯に届くような味がした。
――たぶん鉄ではない。そうか、熱い鉄を打つと、鉄ではない何かが弾け出るのだ……。
鎚を振るう工人の装いを見ると、何かの皮で体の前を覆い、手には、冬の遠出で使うようなシカ革の手袋をしていた。腰にも焦げ跡の付いた長い革を巻き、紐できつく留めている。
何度も叩くうちに鉄の色が褪めてきた。すると、それをまた炭火の中に戻した。もとの塊が、今ではずいぶんと小さくなっている。声を掛けてフイゴで風を送らせ、黄色に熱するまで待って台の上に移し、再び叩く。何度も叩く。これを繰り返した。
メナヒムが族長に理由を訊くと、「わからない」と言う。昔からやっているやり方なのだそうだ。愚かしいほどの時を掛けて他をいろいろと試してみたが、結局は古いやり方に戻り、鉄を鋼に変えるにはこうするしかないと落ち着いたという。
「弾けて周りに散った小さな欠片は、同じに見えても鋼にはならない」
――そうか……。
後ろに控えていたナオトが一人頷いた。
――そういうことなのだ。砂鉄を溶かして鉄にするのがひとつ。その鉄を黄色に輝くまで熱して打ち、鋼にはならないものを除いてなおも打って、いらないものを弾き出して鋼にするのがひとつ。そうやって、中に含まれているいらない何かを外に出すのだ。
すると、残るのはごくわずかだ。ヨーゼフが言っていた「同じ素から二つ別の鉄を作る」というのはこのことなのだろう……。だが、まだ何かあるはずだ。あそこに置いてある長い桶の水は何に使うのだろう?
みなは、族長の話に聞き入っている。しかし、じっと見詰めるナオトの目には、熱心に話す族長が先ほど話を逸らしたかのように見えた。
ナオトは族長の匈奴言葉がよく聞き取れない。それで、気のせいかもしれないと思い、黙した。なおも息を詰めて見ていると、座った工人が箒のようなもので打った後の赤い鉄の表を払っている。音からすると、その小さな箒は金属の線を束ねたものらしい。
――あれは何をしているのだろう……?
この間、他の者は呆けたようにして目の前で行われている作業に見入っている。
あの、どんなときでも冷静なメナヒムですら同じだった。先ほどの大掛かりな丸い窯もそうだったが、ここではとくに、危うい気配が周囲に漂っている。
――危ない。いまにも何かが起きる。
そういう感覚は、メナヒムにとって、戦場で迫り来る敵を待つときと同じだった。
鉄を炭火で熱し、鎚を振り下ろして叩く。それだけのことだ。これが延々と続く。しかし、みな、その場に張り付いて動かない。鋼作りはそれほどに圧倒的な作業だった。
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