『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[217]モンゴル高原を去る
終章 別れのとき
第4節 草原の別れ
[217] ■3話 モンゴル高原を去る 【BC90年8月】
夜露のためか、ナオトは久しぶりに夢を見た。北ヒダカの善知鳥の里にいるはずの母の顔がはっきりと見えた。いつものように、「早く帰って来い、ナオト」と呼んでいる。「かあさん、まだ帰れないよ」と口にしたところで、夢から覚めた。シルが鼻先で顎をつついたのだ。
ナオトは、沙漠の西の外れ、白い雪に覆われたあの高い天山の連なりを南に望む高台の、大きな岩の下の窪みに横たわっていた。あの別れの日、慌てて背負子に突っ込んできた行縢を下に敷いている。
その岩はアルタイの山塊がいよいよ南に尽きて低くなりはじめるという山中にあった。敵を避けるようにしてトゥバから東に戻るとき、エレグゼンが、
「ナオト、一度、ハミル国のバザールを見せてやろう」
と向きを変えて南に進み、二人して馬の手綱を引きながら、低いハイマツの茂みの間を縫ってやっとの思いで越えたあの高台だった。はるか下に広がるでこぼこの大地を前に、南の白い山並みを指差して地勢を教えてくれた場所だ。
陽は、まだ昇り切っていない。一度、ぶるっと身震いをしたが寒さは感じない。
巻いて枕にしていた塩袋を背負子に戻した。中には、ヨーゼフがヒツジの薄革に描いてくれた地図がある。匈奴のモンゴル高原とこれから向かうイリ地方、それに、バクトリアの位置が描いてある。わずかな食料と山の端で自ら作った小刀が奥に見え、ドルジの笛も細長い革袋の口からのぞいている。
首に掛けた革袋のエーズギーをかじり、ヒョウタンの水を一口ぐいっと飲んだ。
すっくと立ち上がって革の胡帯を固く締め直す。目を凝らして四方を見渡すと、東の遠い山並みの輪郭を、昇る前の陽が薄っすらと白く形どっているのが見えた。
耳を澄ましても、聞こえてくるのは枝を揺らす風の音だけだった。眼下には青い薄闇が静かに横たわっている。そのときなぜか、あの最後の朝、いまと同じ薄闇を通して見えた父の横顔が目の前に浮かんだ。
下草に向けて伸ばした馬の頸を軽く叩き、「シル、行くか……」と声を掛けた。まだ、先は長い。
ここまで旅して来ても、探し求めている炎のような形をした器は、まだ見つかっていない。 【了】