『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[117]ウリエルが匈奴に住む事情
第5章 モンゴル高原
第8節 モンゴル高原に住むヨーゼフの子、ウリエル
[117] ■2話 ウリエルが匈奴に住む事情
幼い頃に父を亡くしたエレグゼンには養父が二人いた。一人は伯父のメナヒム。もう一人がウリエルだった。
一人前の匈奴になる前の数年間、メナヒムの一族が九月から翌年の五月まで冬の牧地に滞在する間、エレグゼンはウリエルに預けられて言葉を学んだ。おかげで、ソグド語も、フヨの言葉もそこそこ使えるようになった。だからこうして、ナオトとも話ができる。
エレグゼンがこれまでに聞き知ったウリエルの生い立ちを語った。
「ウリエルは胡人のヨーゼフとフヨ人の母との間にフヨの地で生まれた。いまは、ロバとラクダと筏を使ってモンゴル高原とフヨの入り江の間で金属の板や穀類、それに細々としたものを運んで生活している。父の仕事を継いだのだ。
ウリエルは、父からソグド語の読み書きを教わり、母のフヨ言葉も話す。
いまから十三年前に匈奴の女と結ばれた。長い間、匈奴に住み、匈奴人の仲間と一緒に仕事をしているために、匈奴語も上手に使う。いろいろな言葉ができるというのは父譲りだという。
ウリエルの見た目は、いまでは妻の部族の者とそれほど変わらない。しかし実際には、我ら匈奴が白い男と呼ぶ胡人だ。まあ、吾れと同じだな。
父のヨーゼフがフヨの海際に去って以来、西にいるヨーゼフの元の取引仲間はウリエルを相手に交易している。
ヨーゼフと匈奴との商いの話は面白い。北の匈奴のように背の高い車で寝起きしながら、ヨーゼフは沙漠の北を通って西のハミルから東のフヨまで行き、戻りは北のトゥバへと回って帰る旅の暮らしをしていた。匈奴兵が守ってくれると知っていて、安心して商いをした。
コブが二つあるラクダを何頭も連ねて、小麦などの細々としたものを運んだ。ずっと昔には金を運んでいたこともあるそうだが、紅ほどには儲からなかったという。
ヨーゼフがウリエルに言ったそうだ。『臙脂とも呼ばれる紅は、乾燥させた花から作る。そして女が唇や頬に塗る。匈奴を支えているのは女だ。食い物を見ればわかる。だから匈奴の男はわしを大事にした。女たちになんとか紅を届けさせるためだ』
その紅の素になる黄色の花は、漢が我ら匈奴から奪って抑えている燕支山の近くでしか手に入らない。酒泉の東隣り、張掖という城の南だ。いまでは、匈奴の者にはとても入り込めない。ヨーゼフはそこまで行って紅を仕入れ、捌いていた。匈奴を相手に紅を商う者は少なく、利が大きかったのだろう。そう語るヨーゼフは得意そうだったという。
なぜかウリエルは、紅で儲けた話よりも『ラクダは張掖の水を好んだ』という父の言葉が心に残り、そのときのことをいまでもよく覚えているそうだ。
紅の他に、光る石や貝でできた飾り物もハミルで仕入れて積んでいたので、匈奴の女たちはヨーゼフが立ち寄るのをいつも心待ちにしていたという。まあ、そうだろうなという気はする。
後にはウリエルも父と一緒に旅をした。そうやって知り合った匈奴の女と一緒になったのだろうと吾れは勝手に考えている。
ヨーゼフがまだ旅商いをしていたある年の三月に、二頭のラクダが二頭の白い子ラクダを産んだ。ヨーゼフはその二頭を見てかわいいと喜んだが、しばらくすると気持ちが沈んで商いを続けるのが嫌になった。
何日もの間、ヨーゼフの高車が丘の下に止まったまま動かないので、心配した右賢王配下の匈奴兵が馬を駆って様子を見に来たという。
ヨーゼフは、結局、商いを辞めた。弟のダーリオが住むハミルまで引き返して、持っていた商いの品を全部下ろし、『もう移動はきつい』と告げて去った。『近くまで来ればきっと見つかる』とダーリオに教えた場所は、昔、ハカスから二人して下りて来たときに一度通った匈奴の東の地だった。その頃、ウリエルはまだ生まれていない」
「匈奴の東とは、ここではないのか?」
「そうだ。いま吾れらがいるこの辺りだ。一人残されたウリエルの叔父のダーリオは、夏の商いに備えてハミルで忙しくしていた。そんなある日、西の山の端に日が沈む頃、ふと、兄はあの丘でそのまま死ぬ気なのではと気付いた。
そこを選んだ理由は想像がついた。朝、曲って流れる川に光を映して日が昇るのがよく見える。晴れた日には、西の方角に雪を抱いた白い峰が木々の間から覗く。兄はあの丘にいると思った。
このときの動きは素早かった。ウリエルがまだ幼い頃、ダーリオ本人から直接聞いた話だそうだ。『兄は自分にとってたった一つの拠り所だ。決して、失うわけにはいかない』と、そう思ったという。
ダーリオは、数日後にはモンゴル高原とハミルでの仕事を信頼する仲間にすべて託し、別れを告げた。ラクダに鞍を置いて、匈奴の元騎兵に案内を頼み、一月掛けてようやく兄を見つけ出した。ラクダを降りてもすぐには立てないほどに疲れ切っていたそうだ。よくゴビを超えたものだと思う。夏前だからよかったのだ。
どうにか兄に会うことができたダーリオは、生きる力をなんとかもう一度取り戻してもらいたいという一心から、『二人して東の果てのヒダカを目指そう』と兄を口説いた」
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