『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[093]ハルの面影
第4章 カケルの取引相手、匈奴
第5節 フヨの草原を走る
[093] ■2話 ハルの面影
裸足になって、一歩一歩ゆっくりと足を踏み出しながら川を渡った。
川の流れは思ったよりも急で、深い。それに、水苔のせいか、足裏の石が滑る。
――ここは滑る。余計なことに気をとられずに渡らないと危ない。
ナオトにはわかっていた。しかし、足元の頼りなさに捉われることなく、ナオトの心は気ままに動き続けた。そして突然、気付いた。
――あっ……。考えてみれば吾れは、何かに付けてハルのことを考えていた。
脹脛を濡らすほどの早瀬を渡りながらナオトは、あのまばゆいばかりのハルの姿を、思い浮かべていた。
――初めて大陸を見たときがそうだった。朝靄が晴れて輝くような陸が見えてきたとき、吾れは、ハルにも見せてやりたいと思った。柳の里の窯場を去って高い峰からフヨの入り江を下に望んだときも、匈奴の騎兵が川を背に横一列に並んだときも……。
このフヨに来てからというもの、吾れの心にはハルの面影が寄り添って離れない。そうなのだ。吾れは、いつだってハルのことを想っていた。善知鳥の里でもそうだった……。浜の祭りのときも、橇に大石を載せてみなで西山を下るときも、カケルの舟で十三湊を出るときも、吾れはいつもハルを想っていた。
それに、いまはそうとわかる。そう言える。見ぬふりをして、ハルはいつだって吾れを見ていた。浜の祭りでも、里の娘たちと吾れの家の前を通り過ぎるときも。吾れは、それに気付かなかったのではない。気付かぬ振りをしていたのだ……。
フヨまで来て、ナオトは身近にいたいろいろな人たちが自分にとってどういう人であるかがようやくわかった。母や姉のカエデがそうだった。ハルもそういう一人だった。
ヒンガン山脈の麓まで急いで、疲れていないはずはないのに、母やハルのことを想い返して、ナオトの心は晴れ晴れとしていた。気が晴れれば、体は自ずとそれに従う。疲れなど、ナオトはすでに忘れてしまっていた。
夕刻。ナオトは獣道を北西の方角に上っていた。沈む陽の光を受けて輝く谷向こうの山から物音がした。自分の足音と同じ調子で、ガサッ、ガサッ、と聞こえる。
――木霊だ。
そうとわかってしまえば、木霊も山の静寂もなんということはない。
いつの間にか昇っていた月は朧で、その光は頼りないが、柳の里からフヨの入り江に戻るときに越えた深い森に比べて、この森は星明りを通すほどに木が疎らだ。あのときの怖さを思えば、この原の夜の闇は何ということもない。ナオトは次第に、辺りの静寂を支配しはじめていた。
森の匂いが変わった。これは死んだ獣の死骸の臭いだ。何がいるかわからない。そこで遠巻きにその場から逃れた。微かに小川の瀬音が聞こえる。岩陰に隠れて辺りを窺い、臭いを嗅ぎ、味見した後で水をヒョウタンに詰めた。
柳の里からフヨの入り江に戻るときに山中で聞いた獣の低い唸り声が、いま向かっている北西の方角から聞こえてきた。ぎょっとして立ち止まったナオトは、指を濡らして風向きを確かめ、やや北寄りから吹いてくるとわかるとすぐに獣道を南に上った。危うさは、目には見えないが、そこここに潜んでいる。
すでに、ヒンガン山脈に深く入り込んでいた。ヨーゼフは言っていた。
「北西の方角に山を越えてから二日行くと草原に浮かぶ湖が見える。そこはもう匈奴だ」
苔で滑らないようにと気を付けながら、岩に手を掛けて谷川を遡った。谷中に、シャーアという水音が鳴り響いている。
ヒダカから履いてきた浅沓の傷みがひどいと気付いて、入り江を出る少し前にヨーゼフから革切れをもらい手を加えた。まだ穴も開かずに持ってはいるが、いま登ろうとしているこの濡れた岩場では滑る。
そう思いながら岩に腰掛けて、脱いだ浅沓をいじっているとき、前から心に掛かっていたことがふと浮かんだ。
――そう言えば、前にヨーゼフが、ドルジとは同族だと話してくれた。よくはわからないが、タナハを読むことが同族の証だとヨーゼフは考えているらしい。ドルジがそう言っていた。だが、漢の斉で生まれたドルジと、そのはるか西のバクトリアで生まれたヨーゼフが同じ一族とは、どういうことなのだろう……。
立ち上がったナオトは、深く考えることを止めた。
辺りを見回して科の木を見つけると、皮を剥ぎ、よく揉んでから足先に二重三重に巻き付けた。そして、大小の岩が転がる渓谷を、両手両足に力を込めて、ゆっくりと上りはじめた。
ナオトが登って行く先は深い木立に隠れ、まだ見通すことができない。
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