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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[010]渡を後に、利尻島の沖へ
第1章 西の海を渡る
第4節 三つの海境
[010] ■2話 渡を後に、利尻島の沖へ
いつも通りに西側から大きく回り込んで、日の沈む頃に北の島――北海道――に着いた。いつもならば、二人の航海はひとまずそこで終わる。一晩休んで荷を集め、南に戻る。
しかし、このたびは違った。渡の舟寄せの杭に舟を舫うと、十三湊で尋ねたのと同じことを聞いて回った。ようやく納得すると、明日は早いと、すぐに舟宿で休んだ。
翌朝。
前の晩の残りの汁を腹に入れて、日の出前に渡を出た。丸木舟に帆を上げて風を捉え、ミャーオ、ミャーオと鳴くウミネコの声に背中を押されて、微かだが確かにある潮の流れに乗り、北の島の西岸を北に向けて進めるだけ進んだ。この間ずっと、望んでいた通りに強い南風を帆に受けていた。
思いきり高く作った舟首には、筵を被ったシタゴウが飛沫を避けるようにして乗り、強い波が当たり出したと見ると後ろに向かって声を掛ける。帆を守るために素早く帆柱を倒して横にし、積んである麻綱の束を絡ませて留めた。すぐにそれぞれの漕ぎ座について櫂を一本ずつ握ると、声を合わせて舟の左右で漕ぎはじめた。
風が西寄りに変わり、西から白い三角波が寄せるようになった。無理はすまいと体が冷える前に陸に向かい、入り江に入った。まだ日が残っていたので水を求めて川を遡る。
蚊を払いながら二人で川に入り、その場で削った細竹のモリで魚を突いた。炙って頬張るとすぐに眠気に襲われた。夢も見ずに眠り、翌朝、また漕ぎ出した。
手をかざして西と北とを眺め、そこに影のようにして現れる島の姿と波打つ白い線を追い、島当てにした。岬を越えてみると海しか見えず、
「いよいよ北の果てまで来たか?」
と二人で騒ぎはじめたとき、さらに北の方角に陸が見えて、
「大きな湾だったのか……」
と、がっかりしたこともある。
ひもじさに、積んできた棒鱈をかじり、二人して顔を見合わせて笑った夜もあった。しかし、来る日も来る日も、若さに任せてひたすら北を目指した。
うねりが一番厄介だった。後ろから来ないようにと舟を回して避けるので、うねる波は気付かないほど穏やかに横からくる。これが体に堪える。いつもになく長々と続いてさすがのカケルも吐きそうになり、さらに、舟に載せたわずかな食料を後ろから来た波に持っていかれそうになった。
どうにか乗り切ったものの揺れる感じが抜けず、
「高波に変わると怖い」
と話し合って、
「今日だけは、」
と、舟を早めに陸に寄せて、星と雲を確かめることすらせずに眠った。
ヒダカ人とは明らかに違う人々とも出会った。黒泥の交易で覚えた水、魚、交換などに当たる北の島人の言葉が通じた。みな親切だった。あるときには、あまりに気前よく食べ物を差し出してくれるので、代わりに渡すものはないかとシタゴウが舟の中を漁り、「そうだ」と気付いて、積んであった藻塩を笹の葉に包み、渡した。
二人が十三湊を出てから二十日が過ぎた。一度欠けた月が半分まで戻り、漕ぎながら南に仰ぎ見る雲の形はもう夏だった。
「北の島伝いに北に向かえば、夏はない。あってもとても短い」
十三湊の古老から何度も聞かされていた。いよいよ引き返すことを話し合わなければと考えながら、夕焼けの暖かな陽ざしの中で舟を川の入り江に入れて陸に上がった。
次の朝、舟を出そうと帆柱を立てるとき、朝日に照らされるさざ波の彼方に尖った三角形の島影が朧げに見えた。
――よく見えないが、てっぺんが白いのはもしかして雪か……?
斜め前方に見えてきた三角形の美しい島はいまでいう利尻島だった。明日には、その奥に礼文島が見えてくる。カケルたちは知らずにいるが、北海道の北の端はもうすぐそこまで近づいていた。
利尻岳の威容がいよいよ高く聳え立つように見えてきたとき、ふと、真上に目を移すと、黒と白に染め分けたような大鷲が南に向かって悠然と飛んで行くのが見えた。
「おい、シタゴウ、あれを見ろ。オオワシだ」
「ほんとだ、こんなところにも棲るのか……」
「オオワシは北にしかいない。しかしあれは、冬に備えて南に渡っているのだと思う」
「まさか、ツルじゃあるまいし。それにまだ夏だぞ」
「吾れたちはずいぶん北まで来たということだ。それに、この北の先ではもう秋も終わりに近いということだろう……」
なぜか胸騒ぎがして、その西にある高い島に近づいてはならないとカケルは心に決めた。それでも二人は、なお舟首を北に向けた。風は、涼しいというよりもむしろ冷たく、汗ばんだ背に気持ちよかった。しかし、心の声はますます大きくなっていった。
――もう引き返せ。
ずいぶんと傷んだ帆に受けていた風が弱まってきて、波も穏やかになり、
「さぁて、漕ぐかっ」
と、頭を西に回すと、雲の加減でできた陽光の帯が海上の波間をきらきらと照らしている。まるで、ここまで来いと誘っているようだった。
日が陰ると海の上は寒かった。北の島人に教えられた通りに、だいぶ前に犬の毛皮を筵に替えて被っているものの、体に当たる波しぶきは防げない。
西の三角の島がいよいよ高く大きく見えてきた。二人のふる里の鳥見山ほどに高く、しかも、頂が一つで険しい分だけ、山の姿はさらに美しい。上がうっすらと白いのはやはり雪だ。後ろから吹く微かな風と緩やかな潮の流れに助けられてようやくその島を行き過ぎると、奥にもう一つ別の小高い島が見えた。
潮の流れが心持ち速くなってきたなと感じはじめたとき、ついいましがたまで漕ぐ手を休めて南に遠ざかった高い島を呆けたように見上げていたシタゴウが、間の抜けた声を上げた。
「あれーっ……?」
昨日の夕べ、日はあの島の方角に沈んだ。しかし舟はいま、それとは逆の向きに流されている。二人は慌てて舟を陸に寄せた。
どうにか手前の小さい方の岬を越えた。夕闇が迫っている。振り向くと、あの三角の島は見えなくなっていた。
その岬の先に見えてきたもう一つ別の岬の付け根が入り江のようになっている。磯の岩根を避けながら入り、川を少し遡ったところに砂地を見つけて舟を留め、疲れた身体を横たえた。
その晩は、岩陰に火を熾して温まった。寒かった。波を被り、潮風に痛めつけられて、シタゴウの疲れはもうこれ以上は体がもたないというところまできていた。その夜、二人は話し合い、
「北の島はここまでだ」
「十三湊の爺が言っていたように、潮が東に向けて早い。ここが北の果てだろう」
となった。それで安心したか、二人とも火の側で深い眠りに落ちた。
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