そうだ、自転車で、京都行こう。2 玉村宿〜松井田宿
〜上州の東端から例幣使道、中山道、東海道を辿り、京を目指す〜
1 今回の行程
令和5年(2023)7月20日(木)晴れ
今回は、自転車を車に積んで、玉村宿まで行き、玉村宿から自転車で、日光例幣使道を倉賀野追分まで進んで、中山道に入り、倉賀野宿、高崎宿、板鼻宿、松井田宿まで行き、再び玉村宿まで自転車で戻り、玉村宿から車で帰る一日旅だった。
しかし、この日は日差しが強く、写真を撮るにもスマホの画面が見づらく、途中で画面モードを変更しようとして、逆に画面を暗転させてしまった。眩しくて屋外では画面調整もできなくなってしまったが、松井田宿まで行って、玉村宿まで戻り、車で帰ってきた。
その後、noteで公開しようと編集を始めると、あまりに写真が足りないので、令和6年(2024)3月15日(金)に玉村宿から高崎宿の先、信州街道・草津道との追分まで、翌16日(土)に信州街道・草津道との追分から松井田宿まで追走した。
そこで、基本的には追走時の写真を使い、それ以外の日の写真には撮影日を明記する。
2 倉賀野追分まで
玉村宿は、宿場として、玉村八幡宮の門前町として栄えてきた。玉村八幡宮付近は、慶応4年(1868)の大火を免れたようで、西側に隣接する問屋場跡の泉屋井田家は、数少ない江戸時代の建物が現存している。
玉村宿を抜け、田園風景の中を進んで行くと正面に関越自動車が見えてくる。
井野川を渡ると左側に森が見え、「群馬の森」北入口が見えてくる。
群馬の森北入口を過ぎると右側に大木と祠のある不動山古墳がある。日光例幣使道に面するので、江戸時代は旅人の目印や休憩場所になっていただろう。
不動山古墳は、5世紀後半に造られた前方部を西に向けた長さ94mの前方後円墳で、後円部の不動堂の裏には舟形石棺の身部がある。周辺には、長さ97mの前方後円墳で、長さ12.6mの横穴式石室のある綿貫観音山古墳(6世紀後半)をはじめ、5世紀中頃から6世紀後半まで、70m〜100m級の前方後円墳4基の首長墓群(綿貫古墳群)が形成されていた。
不動山古墳を過ぎて西に進むと県道13号線との交差点「綿貫町」がある。日光例幣使道は、左に曲がり、県道136号線を南に進む。
交差点手前、左側にある、らーめんたん二郎は、比較的盛りも味の濃さも控えめ(私見)の二郎系ラーメンが味わえる。
JRの踏切から600mほど進むと、左側にお堂(閻魔堂)、常夜灯のある「下町」交差点で、県道121号線に合流する。ここが倉賀野追分で、中山道から日光例幣使道への分岐点となっている。
3 倉賀野追分
倉賀野追分は、現在、県道121号線(中山道)と県道136号線(日光例幣使道)のY字路交差点「下町」になっている。追分の角に高さ約173cmの道しるべがあり、正面に「従是 右 江戸道 左 日光道」と刻まれている。その奥には、高さ373cmの常夜灯がある。正面に「日光道」、右側面に「中山道」、左側面に「常夜灯」、裏面には「文化十一年甲戌(1814)正月十四日 高橋佳年女書」と刻まれている。この常夜灯は、五料(玉村町)の高橋光賢という人が私財を投げ打って建立を進め、基台四面には各地の問屋や旅籠など314人からの寄進名が刻まれている。寄進者の中には、雷電為右衛門のほか力士38人からの寄進があることは珍しい。道しるべと閻魔堂は、高崎市の史跡に指定されている。さらに奥には、閻魔堂がある。
4 倉賀野宿
倉賀野宿は、中山道新町宿から一里半(5.9km)、江戸日本橋から12番目の宿場となる。例幣使道との追分であり、烏川の倉賀野河岸もあり、交通の要衝として、栄えた宿場。倉賀野追分からまもなく左側に黒塗りの板塀、2階建の黒塗りの板壁の大山邸と2階に漆喰塗りの「うだつ」のある旧家が並んでいる。大山邸は、2001年に「たかさき都市景観賞」を受賞している。
進んで行くと右側に街道に面した土蔵造りの 店蔵がある。明治時代中期創業の米屋「大黒屋」が高崎市に寄贈され、「倉賀野古商家おもてなし館」として、無料で公開され、休憩所として利用できる。安価で、喫茶の提供も行っている。4年前、日光例幣使道を歩いた時にここで、中山道歩きを勧められて、この旅を始めるきっかけとなった。
「倉賀野町西」交差点(T字路)を右(北)に曲がると旧道が残っている。わずかな距離だが、交通量の多い県道と家一軒分隔てた、住宅の間を通る旧道はホッとする。
5 高崎宿
高崎宿は、倉賀野宿から一里十九町(約6km)、江戸日本橋から13番目の宿場で、高崎城の城下町の中にある。三国街道追分、京口の「本町1丁目」交差点から前橋道追分の「本町3丁目」交差点で、直角に曲がり、城下町ならではのつくりとなっている。城下町の堅苦しさが諸大名から敬遠され、本陣も脇本陣も置かれなかったという。
道路の拡幅、市街化が進み、残念ながら宿場、城下町の面影はほとんど残っていない。
前橋道との追分
「本町3丁目」交差点で、左に曲がる。城下町の中なので、あえて直角に曲がる防御的配置となっている。前橋道は直進。
三国街道との追分
中山道は、「本町1丁目」交差点を直進するする。センターラインのない道幅となり、緩やかに下り坂となる。古い家が目立つ昭和の街並みが続く。三国街道は右折する。
6 山田文庫
「常磐町」交差点の角に煉瓦造りの重厚な塀と和洋折衷の豪邸が目を引く。創立者・山田勝次郎・とく夫妻は、私財を投じて、群馬県内の小・中学校及び高校の児童・生徒に対し、読書を通じて勉強心の高揚を図ることを目的に、昭和49年(1974)に公益財団法人を創立。現在も群馬県内の小・中学校、高校への本の寄贈、自宅を私設図書館として、無料開放している。
「常磐町」交差点、山田文庫の角を右に曲がり、進んで行く。
並木の一里塚が並榎町にあったという。
日本橋から二十七里目
烏川は、君が代橋付近に船渡しがあったが、明和7年(1770)に木橋が架けられた。木橋は渡り賃5文の有料橋だった。
7 上豊岡の茶屋本陣
高崎の追分から中山道を進んで行くと左側に白壁の土蔵、大きな四脚門、板塀が目を引く旧家がある。「上豊岡の茶屋本陣」と表札にある。茶屋本陣とは、宿場と宿場の間に設けられた大名や公卿などが昼食や休憩などに使用した施設である。
説明板によると主屋が18世紀中頃の築造で、離れ座敷は19世紀初頭に増築されたもの。管理をされている方が離れ座敷は、高崎藩の管理になっていたこと、茶屋本陣が主屋から独立した建物になっているのは珍しいと説明してくれた。
離れ座敷は、主屋の右側に接続された8畳間二間からなり、手前が「ツギノマ」、奥が「ジョウダンノマ」とよばれていた。北側と東側を幅一間の畳敷の入側、その外側に濡縁がまわる。身舎は瓦葺、入側、濡縁は下屋で、かつては板葺だった。
上豊岡の茶屋本陣を後に進んで行くと「上豊岡町」交差点付近で、旧道と国道18号線が接近する。
8 藤塚の一里塚
藤塚の一里塚は、江戸日本橋から二十八里目の一里塚。南塚が現存し、塚上に植えられた榎(樹齢200年以上)が残っているのも珍しい。
北塚は、国道17号線の拡幅に伴い、北側に移設され、浅間神社が建てられている。
9 板鼻宿
板鼻宿は、高崎宿から一里三十町(約7.2km)、江戸日本橋から14番目の宿場で、碓氷川の渡しを控え、発展した。県道137号線は、大きく拡幅されていないこともあり、旧家が点在し、宿場の雰囲気がよく残っている。
10 碓氷川の渡し
碓氷川の渡し場は、鷹の巣橋の上流側にあった。夏は徒歩、冬は仮橋が架けられていたという。
11 安中宿
安中宿は、板鼻宿から三十町(約3.3km)、江戸日本橋から15番目の宿場で、安中城の城下町にあった。中山道は、県道129号線となり、拡幅されているが、重厚な商家が点在し、昭和の街並みがよく残っている。
12 松井田宿までの旧道
「安中総合学園高校」交差点を直進し、国道18号線を渡ると松井田宿まで、中山道旧道が繋がっている。センターラインもなく、江戸時代の道幅に近いと思える。沿道には出梁造りの家屋や旧家が点在し、五十貝茶屋本陣跡や八本木立場茶屋跡もあり、街道の趣がよく残っている。区基本的に緩い上り坂で、直進が多い。
一里山一里塚
一里山地内にあったというが、位置不明。日本橋から三十里目。
安中原市ノ杉並木が現存する区間
ルートイン安中の後側から約500mにわたり、杉並木が点々と現存している。
左側にセブンイレブンのある「旧中山道入口」の標識のついた国道18号線との信号の ある交差点のすぐ手前を藪の中を右に下りる道がある(7/20に走った時は、気づかずに国道18号線に合流してしまった)。ここを下って行く。
13 松井田宿
県道32号線を進んで行くと「下町」交差点付近に下木戸(江戸口)があった。松井田宿は、安中宿から一里十六町(約5.7km)、江戸日本橋から16番目の宿場で、信州各藩からの年貢米の集積地として栄えた。近代以降も交通の要衝として、発展した。
14 あとがき
高崎宿を過ぎ、烏川を渡ってからは、基本的にずっと緩い上り坂本で、安中原市ノ杉並木から直線なので、明らかに上り坂を感じ、自転車も時々、押したりするくらいでした。7/20は本当に日差しが強く猛暑で大変でした。
帰りは、逆にずっと下り坂ですからスピードが出過ぎないようにセーブしながらほとんどない漕がずに快適に下りてきました。往きに通過した上豊岡の茶屋本陣跡もゆっくり見学することができました。入館料も無料で、管理人の方が案内もしてくださるので、おすすめです。
https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/4447.html
旅から1年1ヶ月、追走からも5ヶ月が経過してしまい、ようやくupです。写真も一日分が追走分、例幣使道を歩いた時を併せて、4日になるため、季節も時間軸も入り混じって、わかりづらいですが、ご笑覧いただければさいわいです。