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神田川・秘密発見の旅 後編12 これじゃ体に良いわきゃないよ。

後編12  伊達政宗の日頃の生活・・死の直前まで摂生・養生はせず、日々の予定をこなしていた

 政宗の死因が何であったのかは計り知れないが、あまたの戦場で命のやりとりを経験し、豊臣の時代には対馬海峡を渡って朝鮮まで出陣。徳川の世となって天下が治っても饗応、茶事、狩猟、接待、遊興の連続で不摂生な日々が続いていた。体に負荷がかかっただけでなく、国のトップとしての精神的な負担も重かっただろう。

 晩年になっても藩内、藩外での饗応は減ることがなく、体を壊す原因の一つだったと言えるのではないか。伊達治家記録・巻三十九に書かれた薨去直前の寛永13年3月後半の政宗の行動を見ただけでも、連日の酒宴の一端が垣間見える。
 3月18日、茂庭周防良綱宅で饗応 
   19日、宮城郡に鷹狩 
   21日、伊達三河守宗泰宅の饗応 
   24日早朝、小田辺主膳茂成宅でお茶会と夕食会 
   27日には黒澤源内・青木忠右衛門・諏訪辺加左衛門が普請場にでた帰り、
      山王社の二王門近所の茶屋において亭主と喧嘩をし、源内は止めに入
      ったものを打擲し、社家の若党を切った。その場は収まったが、忠宗
      は立腹し、源内には切腹を命じ、青木と諏訪辺は進退召し上げられ仙
      台に差下した。政宗の耳にも達したことだろう。
   28日、政宗は西曲輪で能を舞い、寺院方・諸士に見物させ、和歌を読だ。「旅タタン程モナキマノ花盛リナカメテモ又名残イクハク」と。
   29日、西曲輪で連日の能が催された。これでは体に良いわけがない。
 此の頃になると政宗は自分の健康状態が良くないことを悟り、何かと死後の手配をしている。秀忠はすでに死んでいる(享年53歳)。

 豊臣秀吉は享年61歳。家康は74歳、家光は47歳で亡くなっているから、不摂生を重ねたとはいえ政宗の生涯はその時代にしては比較的長かったことになるだろう。伊達輝宗、政宗、忠宗の3代に仕えた仙台・伊達の重臣・茂庭周防守良元のように84歳まで生きた武将は少なかっただろう。かくして政宗はその生涯を閉じたが、臨終の間にも工事は続いていた。
 そして、神田川のお堀(仙台堀)は残った。
 政宗が薨じた年の江戸城・お堀の工事と神田川の工事は大規模なものであったし、その前、政宗が請けた何回かの江戸天下普請の規模も大きかったのだが、先に紹介した「仙台藩物語」(河北新報出版センター)は政宗が朝鮮で晋州城を建設したことや木挽堀(名取郡・閖上(ゆりあげ)から宮城県岩沼市納屋に至る全長17キロ(通称・貞山堀全体では36キロ)開削には触れているが、東京の仙台堀(神田川)については1ページも割いていない。政宗公の治世に関心を持っている人でも、堀というと「四ツ谷用水」を強調する人が多いし、せいぜい「東京・仙台堀川」の名前が出てくるくらいで、どういう訳か神田川・仙台堀には関心が薄い。

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