神田川・秘密発見の旅 後編14 仙台堀の工事と伊達騒動は同時進行した
後編14 仙台堀工事と伊達騒動が同時進行が動き出す
此の工事こそが現在の神田川・仙台堀の姿を現出させた工事で、神田川の基本の形は今と変わらない。此の工事が終わって以降、江戸市中の水運が盛んとなり、市兵衛河岸、牛込揚場、船河原橋などの跡が今も残っていて、船河原橋が神田川水運の終着点であった。
船河原橋から和泉橋までの間には神楽河岸、飯田河岸、市兵衛河岸、三崎河岸、紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、柳原河岸と河岸が続いていた。さらに両国橋までの間に河岸が4カ所、浜町河岸、日本橋川筋河岸など江戸中に大小70以上の河岸があったが、神田川の水運は江戸の大動脈だった。
隅田川の東岸には小名木川、竪川、六間堀川、深川などがあり、江戸は川と堀に巡らされた水運の街、水の都であった。(図説「江戸・東京の川と水辺の事典」)
仙台堀普請の話に戻ろう。
伊達綱宗は予定通り、公儀に四月の江戸参府と日光参詣のお伺いを立てていたが、幕府からは五月上旬にするように回答があった。その回答に付け加えて小石川堀普請の沙汰があったのだった。
2月2日、江戸で老中阿部忠秋から普請の沙汰を受け、その6日後の8日には
「綱宗の参勤は4月にせよ」と下命が下された。綱宗の周りは急に慌ただしくなってきた。
東藩史稿(巻之四)によると綱宗は
「幼ニシテ敏慧びんけい、学ヲ好ミ仔々しし業ヲ勤ム、封ヲ襲ニ及テ、逆臣原田甲斐宗輔等カ為メニ誤ラレ・・・」となっている。
藩政に関しては積極的に関わっていこうとする強い意志を持っていたのだが、奉行衆は茂庭周防貞元・奥山大学常辰・古内肥後重安の3人だけで、後に大条兵庫が加わったが、古参の茂庭と奥山の対立が激しく、綱宗の親政に暗雲が垂れ込めていた。
2月15日、古内義如(仙台藩・評定役・後に奉行・29歳)が使者として江戸に出府し、藩主の御書を持参して、阿部忠秋他老中を訪問して普請の命令を下されたお礼を申し上げた。その足で幕府の普請奉行永井彌右衛門・城半左衛門・喜多見五郎左衛門・本郷庄三郎にも挨拶状を差し出している。幕府の普請奉行らは旗本の士だった。綱宗をはじめとした仙台藩の気遣いのほどが知れるが、あれこれの手土産もあったに違いない。
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