神田川・秘密発見の旅46 問題だらけの日中友好の歴史に触れる
四十六 問題だらけの日中友好の長い歴史に触れる
小石川後楽園の園内を通り抜けている神田上水はS字に曲がりながら梅林の横を通り抜け、目白通りへと抜けていく。水道橋の排水口で神田川に合流するのだろうか。庭園の泉水に使われている溜水の浄化はどうしているのだろう?園内の管理をしているらしい女性がいたので唐突だったが質問した。
「良い庭園ですね」
「ありがとうございます」で口火を切る。
「コロナのために入園者は少なくなっていますか?」
「季節の要因が大きいですね。暑い時期には入園者が元々少ないんですよ」
「そうですか。ちょっと伺いたいんですが、園内を神田上水が流れていますよね。上水が園の外へ出るのはどのあたりか分かりますか」
「上水の出口ですか、すみません、私は分からないので、調べて連絡します」
とてもありがたい申し越しで恐れいったが、後から連絡をいただくことにした。神田上水の今昔を探ろうとすれば大仕事になりそうだ。園内をさらに散策して西行廟跡に登ったり、泉水を眺めたりして入場した西門から出た。
緩い坂を下る途中に日中友好会館のビルがあった。
学生時代、この会館には何回か通った。当時(善隣学生会館)の建物は既になく、立派なビルになっていて、1階、地階には中華レストランがあった。1階奥にトイレがあって、懐かしさのあまりトイレに入った。この1階のトイレの攻防が当時のテーマだった。今では綺麗なトイレに変身しているが、あの頃のトイレは美しくはなかった。当時の諍いの経過や顛末についてはネット上でも、雑誌などでも種々取り上げられているが、ほぼ毎晩のように会館に駆けつけていた当事者の1人としては実際が正しく取り上げられていない記事が多いのを残念に思っている。
この事件には国際的なバックグラウンドがあった。背景に毛沢東が起こした文化大革命があって、日中間の交流に重い影響力が及んでいた。善隣学生会館の事件も文化大革命の真っ最中に起きた事件で、不幸な時代の事件の一つだった。会館に通い、寝泊まりしている間に、中国の歴史や中国共産党の歴史を勉強することができたのはラッキーだった。
中国5000年の歴史はひと筋縄ではいかない。会館での小競り合いは広大な国土と中国の長い歴史から見れば、ほんの小さな出来事だったのだろう。会館内に事務所を置く日中友好協会の事務員が直面していた最大の問題はトイレ確保だった。中国側はトイレを使わせないようにして、協会を閉め出そうとしていたようだが、トイレ攻防戦は今にして思えば笑い話になってしまう。20歳頃のことだった。何日通ったかはもう忘れた。その後、和解したのか、何らかの手打ちが有ったのだろう。
立派なビルに生まれ変わった日中友好会館のトイレを使わせてもらい、昔々の思い出に浸ることができた。会館を出て、蜘蛛の巣の歩道橋を渡り、飯田橋駅まで戻った。最近発見したお気に入りのカレー・レストランで遅いランチをした。