神田川の秘密26 区の行政はさまざまだね。禁止の多い中野区、ポジティブ新宿区
二十六の3 ほろ苦い思い出の続き
アパートが見つかり、ドアをノックしてしばらくの間合い、Kが顔を出した。「どうしたのかと心配になって」と素直な言葉が出た。「どうぞ」と中に入れてくれた。姉さんは留守のようだった。
部屋は姉妹2人が住むには少し狭い感じがした。Kの父親は大きな建設会社の社長なのに、何でこんな狭いアパートに2人で住んでいるのか理解できなかった。
「風邪ひいちゃったの、明日からまた予備校行くつもり」と言って座布団を出してくれた。Kは敷いたままの布団に座っていた。パジャマに上着を引っ掛けただけの格好だった気がする。
そこまでのやりとりと光景は今でも鮮やかに思い出せる。部屋の様子も布団の柄さえもクッキリと覚えている。にもかかわらず、座ってから何を話したのか一つも思い出せない。1時間だったか、2時間いたのか、
「じゃあ、明日学校で会おう」と部屋を出た。新宿駅までの道のりは幸せいっぱいの道のりだった。
今にして思えば、部屋に重大な忘れ物をして来たと理解する。18歳の川旅老人は清らかなプラトニックな愛情で満ちていて、それ以上でも以下でもなかったのだった。
翌年、Kは東大受験をやめて、お茶の水女子大に行った。同じクラスから、2人が東大へ、1人が東北大へ、他に東京外大、都立大などに合格した同級生がいた。早稲田大学、慶應大学に合格した同級生は何人かいたし、そうでない同級生は地元の国立大学に合格していた。Kが入ったのは理学部数学科で、合格者が5名だったと聞いた。田舎の高校にしてはこの時期に優秀な生徒が集中していた。
東京の一般私立大学に入ったのは川旅老人など、ほんの僅かだった。それ以来、Kとは音信が途絶えた。
十二社通りは未だ道路整備がされていなかった頃で、迷路のように曲がりくねっていた通りを、Kのアパートを探して行きつ、戻りつしたことは、60年経っても寸分違わず思い出すことができる。それは青春の輝いた一瞬だったからね。新宿西口十二社は相生橋からほんの500メートルの距離にある。
遠い思い出が頭をかすめたが、それは一瞬のことで、神田川を淀橋まで来て新宿区に入った。川は淀橋で青梅街道と交差するが、新宿の高層ビル群は川の背後に回り、神田川に沿うマンション群も少なくなって周辺は一般住宅街になり、遊歩道は急に元の静けさに戻った。ここからの道に新宿区は四季の散歩道と名前をつけている。淀橋は「よどはし」と濁らずに読むらしい。浄水場も近いし、濁り水を避けたい気持ちの現れだろうか。
橋の脇には淀橋の由来を書いた看板あったが、メンテナンスが悪くて字が掠れている。目を凝らしてようやくに読んだ。この橋の名前は徳川3代将軍家光の命名によると読み取れたが、その後に恐ろしいことが書かれていた。橋の元の名前は「姿見ずの橋」だったそうで、
「中野の長者、鈴木九郎が自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げこみました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。鷹狩のためにこの地を訪れた家光はこの話を聞き、不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出せるので淀橋と改めるよう命じ、これ以降、その名が定まったそうです」と。
この看板は『新宿区 道とみどりの課』が建てたもの。中野区と新宿区では鈴木九郎の物語も違うストーリーになっているのがおもしろい。淀橋には江戸時代から昭和の初期まで水車があって、その頃の古い絵図も看板には複写されていた。同じ区行政でも中野区と新宿区とでは考え方に違いがあるのかもしれない。
というのは、新宿区に入った途端、川沿いの桜並木が復活していた。4月になれば多くの人が桜を楽しむことだろう。それに、例の「あれも禁止・これも禁止公園」は見かけなくなった。桜の芽吹きを感じながら栄橋、伏見橋を過ぎ、末広橋まで来た。