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神田川・秘密発見の旅 後編37 筋違の謎はますます深まっていく。夜も眠れない

後編37 謎はますます深まっていく。夜も眠れない・・

 そこで次の疑問。
橋が先か門が先かを度外視して、
「筋違」の名前の由来はどうなのかということ。

つまり、橋にも門にも関係なく、橋や門ができる前からこの場所を「筋違」と呼んでいたのではないか、と推測してみる。
「江戸東京地形の謎」(芳賀ひらく著)では「筋違とは、北から南へ流れていた水流の向きを、ここで90度変えたの意」と説明されている。

古石神井川の流れがここで替えさせられた、と考えられないだろうか。
この一帯は元を辿れば海面下で、海面が引いた後も地形は100年、500年の単位で変化し、川に侵食された部分が神田明神、湯島天神近くの崖地や樹木谷となって残ったと上記の芳賀氏は書いている。
 ここで少し遠回りになるが、石神井川はその昔どう流れていて、今はどうなっているかを見てみたい。

 現在の石神井川は小平市(小金井カントリークラブ敷地の近く)を水源として西東京市から練馬区に入り、南田中団地を通過するとしばらくは南側を流れる谷端川と並行して流れるが谷端川は石神井川に放流される。王子に至ると駅の地下を通って隅田川に注いでいる。
 旧石神井川は、かつて飛鳥山にぶつかると流路を南に変え、本郷台を目指し、谷田川の流れに合流していたのではないかと見られている。それは地質学者の調査をもとにしているもので、谷田川(藍染川の通称あり)から不忍池を経て昭和通りに至る流路を持っていた。そこにはかつての流路を暗示するように、地下に20メートルに達する埋没谷があることを根拠にしている。

 このシリーズで紹介した「江戸・東京の川と水辺の事典」(鈴木理生)は石神井川は人為的に流路を変えさせられたものと説明する。鈴木先生の図は更に仙台堀が開削された後の図に続くのだが、複雑になるのでここでは順を追って説明したい。

 図5-2Aを見ると、谷田川が不忍池に一旦入り、
現在の神田川を越すと途中のお玉ヶ池に入った後、江戸港の河口に出る。江戸前島の東岸に流れ込んでいる。それが図5-2Bになると、旧石神井川は流路を変更され、隅田川に注いでいる。その曲がり角が「筋違」と指摘されている。
橋も門の未だできていない。

 第一次江戸・天下普請(慶長8年~12年、1603~07)の時期にあたり、慶長10(1605)年、秀忠が第2代将軍となった年に開削が完了している。この時には九州を中心とした西国大名が動員された。同時に江戸前島を南北に掘り割った「外濠川」が開削されている。この工事は徳川方が自前の費用で実施した。

 神田川開削工事やお玉ヶ池が埋め立てられた工事、道三堀開削工事の図解は「大江戸古地図大全」(菅野俊輔監修)にも時代を追って描かれている。ここでも江戸湊に流れ込んでいた旧石神井川が隅田川へ流路を変更されたと図解されているが、川筋を変更したポイントの名称(筋違か)は記載がない。
 この頃には日本橋から発して、神田山の尾根を北西に進む中山道も明記されている。筋違橋門は第5次江戸・天下普請の終了した寛永19年頃の江戸図(寛永江戸全図・臼杵市歴史資料館所蔵)には橋も門も名前が表記されている。
 さあ、謎はどうなるのか、調べれば調べるほど神田川は不思議な川だと思える。

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