神田川・秘密発見の旅 後編26 小石川橋には分水口もあるし、日本橋側への分流もある
後編26 神田川小石川分水
水道橋駅にもう一度戻って、しつこく神田川と仙台堀をながめる。
水道橋の真ん中で下流左手を見るとパッカリ大口を開けた神田川分水流の出口と入り口が見える。出口に流れてくる水は白鳥橋の分水流から受水したもので、暗渠で目白通りの地下を飯田橋まで直進、そこで外堀通りの地下に大きく左折しての水道橋の出口に流れ出ている。続いて、お茶の水分水路の入り口があるから、開口部がかなり広い。出口・入口の脚柱に蔓草が覆い被さるように垂れ下がっている。両岸はビル群が空を突き刺していて、都市型河川の典型的な景観をそこに見ることができる。
ここで写真を撮り、後楽橋に引き返して、外堀通りを小石川橋までわずかな距離を歩く。小石川橋の下では神田川と日本橋川がほぼ直角に分岐していて、三角点の真ん中に小舟(ボート)が舫っていた。船頭さんがお船を止めて刻みタバコをキセルで一服。という図のはずだが、ボートの船頭さんは折り畳み椅子に座り、俯いてスマホをいじっていた。都市型河川に変貌を遂げた神田川は船頭さんの姿まで近代化しているのだった。
ついでながら、日本橋川は伊達政宗が請け負った第1期仙台堀工事(元和6年、1620年)で堀留橋まで600メートルに渡って埋め立てられたはずの旧平川で、再開削されたのは明治36(1903)年のこと。神田川に繋ぐことで水運の利便と流路の分散を図ったのだった。日本橋川は下流に行って日本橋水門で亀島川と分れ、隅田川に注いでいる。
小石川橋で日本橋川との分岐を確かめ、もう一度水道橋駅に戻る。
行ったり来たりだ。水道橋に行き着く手前に「市兵衛河岸・跡」がセメントの「防災船着場」に変身しているのを見届けた。
江戸の時代、この河岸でどんな荷物が積み下ろしされたのだろう。この河岸は明治8年(1875年)から昭和8年(1933年)まで、後楽園一帯にあった「陸軍砲兵工廠」が九州小倉に移転するまで、荷揚げのために使われていたと記録されている。