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神田川逍遥・老人の秘密7

七 吉祥寺はなくても、吉祥寺
 吉祥寺が水道橋にあった頃、近隣に住んでいた町屋も庶民も大火の後、牟礼(今の三鷹市)などの郊外に移転を命じられた。移転先の土地は幕府が用意し、移転の費用が与えられた。
「まことに治世安民の政道ただしき御事なれば、かたしけなくも公方より銀子壱万貫目を町人にくだし給はり・・・御町奉行神尾(カンノオ)備前、石谷将監(イシガエショウケン)両人承り・・・渡す」(むさしあぶみ)
 幕府から庶民の移転費用としてくだされた『銀子壱万貫目』は現在に置き換えてみるといったい、いくらくらいに相当するのだろうか?『江戸の暮らし』(山本 博文著 日本文芸社)の換算率を元に、1両=銀50匁=10万円、1貫=1000匁として計算すると幕府は20万両、200億円を御金蔵から拠出したことになる。なお、週刊・江戸No21(ディアゴスティーニ・ジャパン)では町民に与えられた支援金を16万両、約240億円(1両=15万円)と計算している。市街地も農地も、土地そのものは全て幕府が領有していたから移転した人々は、幕府の所領地を与えられている。江戸の救民・移転先支援策と東日本大震災の支援策とを比べて見るとどうだろうか?江戸には「原発」はなかったから、単純比較は不可能だけど。
 さて、牟礼に移転した人々だが、移転後も住み慣れた吉祥寺界隈を懐かしんでいた。奇しくも神田川の上流に住むことになったが、吉祥寺の名前にも思いがあったのだろう。人々は引っ越し先の新しい地名を次第に吉祥寺と呼ぶようになり。この地名が現代に引き継がれている。三鷹市吉祥寺にお寺の吉祥寺はなく、吉祥寺の名前だけが残されたのは、明暦の大火に発していたことを川旅老人は確かめることができた。
 ところで、吉祥寺が移転して空き地となった跡地はどうなったのか?
 明暦の大火の後、幕閣は寺の跡地をおおむね武家屋敷に割り当てている。吉祥寺の跡地は松平讃岐守頼重の下屋敷となった。高松藩・松平家当主は徳川御三家の水戸藩・徳川頼房の長男で、徳川光圀(黄門様)の同母兄。高松・松平家は水戸家の御連枝で、幕末まで養子縁組を繰り返している。水戸家の上屋敷は大火で全て消失したが、同じ場所、小石川に再建されている。水戸家が湿地帯で低地の小石川河口に留まったのは江戸の街に給水する神田上水の重要性と関係があると見る見方がある。上水の確保は江戸を治める上で重要なファクターであったことは間違いない。今の小石川後楽園や東京ドームのある場所にあたる。
 高松・松平家の上屋敷と中屋敷は水戸家藩邸とは神田川を挟んで対岸にあった。白金に広大な敷地の下屋敷を持っていたが、吉祥寺が立ち退いた跡地を新たに下屋敷に加えている。江戸の古地図によっては新しく取得した吉祥寺跡地の屋敷を高松・松平家の中屋敷としているものもあり、天保14年(1843年、明暦の大火から186年後)の江戸切絵図では宋対馬守所有の名も見える。ただし、幕末対馬藩15代藩主義和(10万石)は神田川和泉橋に近い藤堂和泉守(伊勢・津藩32万石)の上屋敷の裏手に屋敷地(14,000坪)を持っていた。

 嘉永6年(1853年、大火から196年後、天保時代中心の絵図)尾張屋清七板出(麹町6丁目)の本郷絵図には吉祥寺の跡地に松平讃岐守頼胤の敷地(約2,800坪)に倍する広さで、青山大善亮幸哉(美濃・郡上藩48,000石)の上屋敷(約7,800坪)が描かれている。青山大膳亮の名は享和3年(1803年)頃の地図(分間江戸大江図)には見られない。ついでながら、青山大膳亮忠成は家康に仕え、秀忠の傅役となった人物で、赤坂から原宿にかけて広大な敷地を与えられていた。改易を受けてが許され、蟄居を命じられて許され、紆余曲折を経ながら幕末まで青山家は残っている。現在東京青山界隈、青山墓地などは江戸時代、青山家の敷地だった。大火の直後に書かれた明暦3年の地図では吉祥寺の有った場所は「明(アキ)」となっているから、ともあれ、大火の後吉祥寺が速やかに移転したことは間違いないだろう。


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