神田川・秘密発見の旅48
四十八 神田川・発見の旅 番外編・汐入公演
第2回目の講演会は汐入公園がテーマなので、大名庭園とはまた一味違うお話になるのだろう。神田川とは遠く離れたテーマになってしまうから、出席を躊躇していたが、今は出席する気になっている。
1週間後の8月30日、第2回目のセミナーに出かけた。
江戸の作庭技術者たちが何を考え、何を残そうとしたのか、それを理解することで本稿の次のテーマである「仙台堀開削」のテーマにつながるものがあるのではないか、先生のお話を聞きながら、少しづつ期待が高まってきた。対象になる庭園は旧浜離宮恩賜庭園と旧芝離宮恩賜庭園の2つ。なぜこの2つが講演の対象に選ばれたのかは、お話を聞いてみなければわからない。
それにしても、庭園名の頭に「旧」がついているのは「新」あるいは「現」があるからだろうか、それはどこに在るのだろう?あるいは「新」と区別しなければならない理由は何だろう。お話を聞く前に、初歩的な疑問が湧く。先ず、「旧浜離宮」「旧芝離宮」と読み、それが恩賜公園にかかるのだろうか?あるいは「旧」は浜離宮、芝離宮の名前全体にかかっていて、旧・浜離宮(=現・都立浜離宮)となるのだろうか。話の前に文法が気になってしまった。いずれにしても「恩賜」の名前がついていることで理解が複雑になる。
浜離宮は徳川4代将軍家綱が弟の甲府宰相綱重に埋立地を邸宅地として与えたことに始まるようだ(重森レポート)。綱重が建てた別邸は甲府殿浜屋敷、海手屋敷と呼ばれたそうなので(前記レポート)これが名前の始まりになるのだろう。綱重の子の綱豊が6代将軍家宣(宝永6年・1709年)となって、甲府殿浜屋敷は幕府の御殿、公家接待の場になった。8代吉宗、10代家治、11代家斉と庭園の整備が進み、鴨場や藤棚などの建造物が増えていく。幕末維新の政変で明治政府が没収し、明治3年に皇室の財産となって、名前も浜離宮と変更された。
恩賜とは「天皇から物を賜ること」(大辞林)だが、この庭園と建物は元々が埋立地に作られたもので、徳川歴代将軍が長年にわたって整備してきた庭園である。わざわざ「恩賜」と名を冠せた意図は奈辺にあるのだろう。旧芝離宮恩賜庭園も元はと言えば日比谷入江の埋立地で、家綱が唐津藩主大久保忠朝にくだしたものである。つまり、両庭園は江戸・家綱時代に埋め立てられた場所で始まった庭園なのだ。埋め立て用の土はどこから持ってきたのか?誰が運んだのか?費用はどれくらいかかったのか?江戸の初期、家康の時代から日比谷入江は埋立工事が続いていたが、膨大な土砂の出どころは神田山を突き崩した土と江戸城拡張工事で出た土が使われたであろう。2つの汐入り公園には神田川開削の巨大な事業、徳川の天下普請と切り離しては考えられない。それを思うと、「恩賜」の名が冠さっていることにいささか違和感がある。
2つの庭園の見どころや優れた作庭技術のことは講演会でお話を聞くことができたが、ここでは詳しく触れない。この庭園が作られた時代、庭園は海に面していた。園内に海水が引き込まれ、潮の満ち引きの変化を水門の開け閉めで巧みに操って、見る人を瞠目させていた。お話を聞いていると江戸の庭師の作庭技術に改めて驚かされる。潮が満ちているときは埋没している飛び石が引き潮とともに水上に現れて、泉水にある浮島に飛び石伝いに渡ることができる構造。庭園内に作られた磯浜。重森先生に写真で解説され、その優れた技法がよく理解できた。築山と築山の間から茫茫とした大海原を垣間見ることができる構造。庭園は海との調和を保って、海の力を庭園の日々の変化に取り入れられていたのだった。江戸の作庭技術も、神田川などの河川治水技術も、自然との調和という視点を持っていたことがわかる。自然の力を侮らず、自然を加工したとき、自然の変化や出方を見ながら少しずつ手を加えて行っている。自然に対する畏敬の念があり、自然に対し、尊大であったり、傲慢であったりすることを戒めている。自然を抑え込むのではなく、より良く調和をとる道が探られている。
「お知らせ」
以上で前篇が終わります。後編は「仙台堀」の調査報告です。