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神田川 老人の秘密 久我山神社の謎解き

十三の(1) 久我山神社の謎解き

 高井戸駅から電車で家に戻り、写真を整理した。

右前足は?

 久我山稲荷神社で写した狐の写真を良く見ると右前足がない。3本足の狐のように見える。狐のお腹の前には後ろ足で顔を隠した動物のような、得体の知れないものが置かれている。生まれたばかりの赤子のようにも見える。狐の尾は後ろ足の太腿を巻き込んで艶かしく、柔らかく垂れていて怪しげだ。首に掛かった赤い涎掛けはご愛嬌としても、狐にしては後ろ足の太ももが大きい。写真というものは時に恐ろしい。セメントの狐が変に艶かしいだけでなく、まるで生きているようにこちらに目をよこし、語りかけている。狐と稲荷神との深い関係性はこの際脇に置くとして、セメント狐が疑問を呼んだ。
 男性が拝殿に向かって一心に祈願していた場所の両脇にセメント造りの一対の狛犬はあった。ではなく、狐だったのは稲荷神社らしいと言えば言える。しかし、写真に写ったセメント作りの狐が生きた狐の雰囲気で、何かひとこと文句ありげにしている。

 「たかがセメントの塊じゃないか・・・文句なんかあるはずがない」と思いつつ、前回は写真を撮っただけで前足を失っている狐を良くよく観察してこなかった自分の不注意を責めた。「たかが・・・」と簡単に片付けられない。お腹の前の物体も確かめてこなかった。老化で集中力が衰えているのは認める。しかし、こんな注意力散漫では神田川を再発見・解体することなど夢のまた夢になってしまう。神田川の秘密を解き明かそうとする高邁な目標がある。悔しいが、一週間して久我山神社を再訪問した。
 今度は正面から階段を上がった。
 階段を数段上がったところの踊り場でセメント造りの鳥居を潜り、更に赤くペイントされた2番目の鳥居をくぐって、狐の前に立った。狐の前足は胴の付け根から折れ、セメントの短い棒状の塊となった前足が無造作に台座の上に転がっていた。狐の体の前にある物体は人間の赤ちゃんではなさそうだ。想像するに、邪鬼か邪悪な心を具象化したものではないかと思われる。折れてセメント棒になってしまった右前足が狐の体についていた時、その物体を前足で押さえつけていたのだろう。セメントは風化が早いから痕跡は定かでなかった。インスタ映えの良い狐ではあったが、近くで見ると残念ながらただのセメントでしかなかった。いささかの落胆を覚えた。
 対になっているもう一方の狐は変形した鎌のようなものを前足で持ち上げている。収穫の道具に見立てているのだろうか。

右足で抑えているものは何だろう?

 稲荷社は全国に32、000社あるそうで、劇場や屋内の稲荷社を加えるとその数は膨大なものになるそうだ。その多くが関東にあるようだが、総元締めは京都の伏見稲荷。江戸時代には多く見かける物の例として『伊勢屋、稲荷に犬の糞』と言われるほどだったそうだ。なぜそれほどに稲荷社が拡散したのか。稲作という基本食糧の神とされたことが原因だろうか。多いということが価値あることだとすれば、稲荷社はまごう事なく価値がある。ご利益を信じる人がそれだけ多いということになる。それだけ有ると、受け付け窓口が多くて稲荷神も整理が大変だろうなと同情心が湧く。ご利益は受け付け順なのか、あるいは別な基準で順番は決まるのか、ご利益は毎日発出しているのか、瞬時に何万件ものご利益を発出できるのか。稲荷神の気まぐれで発出しているのか。この辺りの大事なポイントがハッキリしない。

鳥居を寄進した総代の苗字が秦というのも偶然か?

 先日歩いたばかりの緑地公園を歩く。
 大きな欅が計ったような距離感で植え込まれていて、精一杯の自然を主張していた。そのすぐ向こうには家々が軒を並べている。神田川左岸と井の頭線との狭いスペースにも家が建ち並んでいる。この一帯が昔有ったような自然に戻ることはもうないだろう。都会は人がひしめき合って生活している一方で、地方には里山崩壊、限界集落、荒廃農地が増え、かつて人の営みがあった場所が自然に侵食され、元の姿に回帰している。廃屋も多い。

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