神田川の秘密33の(3) 飲み水で使っていた神田上水は今、どうなっているのか訪ねてみた
三十三の3 神田上水は道路になってしまった
ともかく、江戸時代が1804年に終わり、明治となり、大正、昭和、平成、令和と時代は流れた。日本は明治時代に日清、日露の戦争をし、昭和の時代には満州事変、日華事変を経て更に大きな戦争を経験した。第二次世界大戦で亡くなった日本人戦没者は日本政府の公式発表で310万人。中国政府が1985年に発表した中国の軍民死亡者数は2100万人。近代戦の恐ろしさは関ヶ原の合戦とは比べようもない。
1945年8月6日、広島では1発の原子爆弾で一瞬にして10万人が死んでいる。そのほとんどが非戦闘員だった。そして、今日になるのだが、戦争を懐かしがっている人々が台頭している。こういう人たちは兵器を増やせ、予算を着けろ、国を愛せと大声で叫ぶことはするが、大抵は戦場へは行かない。明治以降の大きな戦争でも家族や親戚で戦場に出た人がいない階層の人々だと言われている。
江戸川橋を越すと、神田川には高速道路の支柱が打ち込まれる。川は高速道路を支えるスペースへと役割と姿を変えてしまう。川の上を走っている首都高5号線を車で何度も走ったことがある。しかし、神田川のことなど考えたこともなかった。今さらになって、高速道路の下敷きになっている神田川の姿を嘆いている。これも自分勝手な振る舞いだね。
注目したいのは神田川(旧江戸川)に並行して流れていた神田上水だが、今はどうなっているのだろう。大洗堰から引き込まれた神田川の水は江戸の人々が飲んでいたことは前に述べたし、神田上水が日本で初めて作られた本格的な上水道だということは広く知られているところだ。
上水は大洗堰から素掘りの開渠で導かれ、水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園界隈)の北西隅に引き込まれていた。水戸藩の敷地内に入ると藩邸の泉水庭園の隅を通過し、今の水道橋へと流れていたのだった。水道橋に出た上水は掛樋で神田川を越え、市中に流されていった。
上水が役割を終えると水道には蓋がかけられ、道路となり、今では両脇に歩道のついた6メートルの一般道となっている。水戸藩上屋敷も小石川後楽園となって泉水や庭園部分は残されているが、屋敷の有ったところはホテルやドーム球場、遊園地となってしまった。
2021年6月25日、かつて上水が通っていた場所を歩いて確かめてきた。天気予報が外れて急に降り出した雨を、江戸川公園の高速道路の橋桁の下でやり過ごした。傘を持たない老人がもう1人雨宿りしていた。30分ほどのシャワーの後、止んだ。
もし、この旧上水道にもう一度来てみたいかと聞かれたら、お断りするだろう。写真を残したかったけど、写す被写体がなかった。とはいえ、かつての上水道脇には江戸時代から続く寺があり、低地を流れていた神田川に下る坂道には江戸の名残りを留めた地名がある。小日向神社から古河橋に降りてくる坂は服部半蔵にちなんだ服部坂、伝通院前から大曲の白鳥橋に降りてくる坂は安藤飛騨守にちなんだ安藤坂、金剛寺前から石巻通りに来る坂は金剛寺坂と言った具合である。