神田川・秘密発見の旅 後編9 徳川秀忠が薨去すると・・政宗はますます忙しくなる
後編9 徳川2代将軍秀忠薨去・・政宗はますます忙しい
この年、7月頃から将軍秀忠は体調すぐれず、政宗は白石まで出向いたり、郡山まで出向いたりしているが、幕府からは出府に及ばずと言われ、その度に仙台に戻っている。しかし、秀忠いよいよ具合が悪く、政宗は12月に江戸に到着、秀忠を見舞ったが、寛永9年正月24日、秀忠は身罷った(享年53才)。この時、政宗は65才。「大相国秀忠公、西ノ丸ニテ御他界ナリ」と。その日の夜から増上寺の廟建設工事が始まり、取り掛かった普請人夫は数万人と書かれている。
香奠は政宗が銀100枚、忠宗は50枚。
翌年(寛永9年)正月に秀忠薨去のことがあったので前年の江戸城石垣工事の大普請は記録上薄い取り扱いになっているのかもしれない。
秀忠薨去の1年後、寛永10年正月20日には「松モシレ余ハ今年ヨリ千々ノ春」と発句した家光が徳川3代将軍に就任している。この句は素直な、汚れのない心の発露なのだろうが、天下人家光の思考の程度を垣間見ることができる。就任まもない3月21日に家光は政宗の屋敷に御成というから、政宗の将軍家に対する立場を表しているように思える。
寛永13(1636)年の正月8日、政宗は江戸城堀橋(赤坂・糀町・市谷など)の修築を承っている。堀の修復を7組に分け、そのうちの1組を政宗は単独で請け負った。他の組は諸侯が協力しあって修復に当たっているが修復の場所も7組中最大で、24,466合(東京市史稿 2,440坪、8000㎡)。サッカーのピッチが7140㎡だから、この工事も決して小規模な工事ではない。
伊達治家記録では「どうだ、大したものだろう!」と言わんばかりだが、別な資料(wikipedia)を見ると堀方七組には58大名が動員され、同時に進められた石垣工事には六組・62の大名が当てられた、と説明がある。それを単独の一組で引き受けたのは大いに自慢したいところだろう。
「此役七組ニ頒チ、其ノ一組ヲ諸候数家力ヲ協テ之ニ當る、我ハ一手ニテ一組ヲ負担シ、大名中最モ重ナル者ニシテ・・」と治家記録に書き残している。幕府側は各組の掘削土量がおおむね同じになるように、また諸大名の組み合わせは平均50万石程度になるように組み合わせを指示したそうだから、1藩で受けて立ったことを自慢するのも納得がいく。
大工事だった。
石垣工事は1月8日から始まり、堀方工事は3月1日から始まった。全ての工事が終わったのは夏頃。石垣工事には石材・木材が伊豆半島から切り出されて江戸に運ばれているが、お手伝い普請の内示を受けていた西国の大名は、寛永11年12月頃から翌年夏にかけて石材の搬入を始めていたそうで、伊豆での場所取り合戦も展開されたそうだ。
幕府側は石の種類や大きさを、使う場所ごとに細かく指示していたから請け負った大名は神経を使っただろう。・・・例えば、高石垣には根石より4間分は面2尺6寸から3尺、長さは8尺から9尺、高さ10間内外の石垣は少し大きめの石を使えなど。石材・木材は請け負った大名が費用を負担したが、江戸での石の値段は大石が22両、栗石が1坪(体積)について24両だったと書かれている。(白峰 旬・別府大学紀要)