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神田川・秘密発見の旅 後編3「仙台堀」始末 江戸天下普請とは何だったのだろう

三十六 後編3 仙台堀始末(1)江戸天下普請とは何だったのか

 神田川のことを調べ始めてすぐ、仙台堀のことを知った。
 東京に暮らしたことのある人、東京で働いたことのある人ならば大抵の人がそれとは知らずとも「仙台堀」の近辺に行ったことがあるだろう。JR飯田橋駅の辺りから、秋葉原駅近くの和泉橋までの渓谷と堀の通称で、ガイドブックやネット情報を見れば写真と一緒にその場所を確認することができる。

防護柵があって土手に降りることはできないが
渓谷の深さは感ずることができる
(飯田橋から水道橋に向かう途中)

 こんな都会のど真ん中に、なんでこんな渓谷があるのだろう、と一瞬疑問に思う人は少なくないはずだ。ところが、仙台堀についてまとまって説明している資料は意外に少ない。仙台堀の一部分の説明であったり、江戸・天下普請の説明の一説であったりして、全貌がなかなか見えてこない。三鷹市・井の頭池から発出した神田川は、いくつかの河川と合流して飯田橋にたどり着き、いよいよ江戸・東京の中心部に至るのだが、神田川全流域で渓谷が有るのはここだけ。

堀の長さは距離にして約1.4km 。
川沿いの道(外堀通り)を実際歩いてみると、渓谷は意外に深いのだ。

太田記念美術館「江戸の土木」より
崖の下を流れるのは神田川・仙台堀
橋のように見えるのは掛樋(神田上水)

 徳川は関ヶ原の合戦に勝利し、大阪冬の陣・夏の陣で豊臣を滅して天下を握ると、江戸城をはじめ支配下にある各地の城の修・改築や河川の治水工事、石垣工事を地方の大・小名に申しつけた。いわゆる天下普請・お手伝い普請がこれである。仙台堀もその中の一つで、伊達政宗公に始まる第1期工事、第3代綱宗公・第4代綱村(亀千代)公時代の第2期工事と仙台藩が連続して神田川開削工事を請け負っている。仙台堀と通称された所以もそこにある。

 仙台堀のことを書く前に、江戸時代の「お手伝い普請」の実態をあらかじめ探索しておきたい。
 ここに杉本苑子という作家がいる。
 1962年に直木賞、1978年には吉川英治文学賞を受賞し、1986年に女流文学賞を、2002年には菊池寛賞、文化勲章を受賞するという華麗な作家生活を送った人で、生涯独身を通し2017年5月31日に亡くなっている(享年91才)。歴史物が多い。「申楽新記」を「サンデー毎日」の百万円懸賞小説に応募したのを皮切りに(26才)、長・短編250作以上を上梓している。直木賞を受賞したのは37才の時で、「狐愁の岸」が対象作品だった。この作品は徳川9代将軍家重が薩摩藩・島津重年に命じたお手伝い普請(1754年・宝暦4年)、後に宝暦治水事件と言われる川普請をテーマにしたもので、濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水・開削工事をめぐるお手伝い普請の顛末を書いている。

 講談社文庫の表紙帯に書かれたテロップには
「財政難に喘ぐ薩摩藩に突然濃尾三川治水の幕命が下る。露骨な外様潰しの策謀と知りつつ、平田靱負(ヒラタユキエ)ら薩摩藩士は遥か濃尾の地に赴いた。利に走る商人、自村のエゴに狂奔する百姓、腐敗しきった役人らを相手に、お手伝い方の勝算なき戦いが始まった・・・・」とある。
 この治水事業には薩摩藩の藩士が947名派遣され、その内小奉行を含む51名が何らかの責めを負って自害。赤痢に罹患したもの157名、その内33名が死亡。幕府側も工事に雇われた技術指導者内藤十左衛門ら2名が自害。工事は宝暦4(1754)年2月27日に始まり、翌年5月22日に完工している。工事の総奉行で薩摩藩・勘定方家老・平田靱負は幕府への工事完了の届け出、藩への報告書など一切を滞りなく済ませ、現地で割腹自害を遂げている。多くの藩士を死に追いやり、恥辱を耐え忍んだ藩士たちの労苦を思い、自死したのだった。当時の武士の責任感や使命感、プライドは「秘書が、秘書が」と目下のものに責任を取らせ、嘘まで言って逃げ回る現代のリーダーとは異質のものだったと思える。

 幕府の目的が何であったかは別に、お手伝い普請の幕命を受けた藩にとって対象工事を計画通り完了させられるかどうかがお家存亡に直結していたのだった。薩摩藩はこの工事に40万両を支出したそうだが、 山本博文著「江戸の暮らし」(日本文芸社刊)の換算率でみると(1両=10万円)。現代の費用で400億円に相当する。1両を15万円と換算する研究者もいるから、それだと工事費用は600億円にのぼる。薩摩藩の禄高は77万石。一石1両で換算すると国の年間収入の半分以上を河川工事に取られた計算になる。薩摩藩は石高の他に琉球との交易で得られる簿外収入もあっただろうが、それはあくまで副業。77万石を現代のGDPだと考えれば、薩摩藩の支出した工事費用がいかにも膨大な数字に思える。しかも、工事を失敗すれば藩の取り潰しの口実を与える可能性もあるし、幕府の要請を拒否すれば戰になる。成功させて当たり前であって、完成すればしたで藩の財政は破綻する。お手伝い普請は行くも戻るもかなわない崖っぷちの状態を藩にもたらしたのだった。

寛永江戸全図より
中央部分に江戸城
青い付箋の左手に吉祥寺と水戸藩上屋敷
ここ区間の1.4キロが「仙台堀」

 お手伝い普請を命ぜられた時、薩摩藩に手持ち金はなく、逆に66万両の借財を抱えていた。借財そのものが限界に来ていたにもかかわらず、薩摩藩はあの手この手で大阪の金貸しなどから22万298両の借金をして工事費をまかなった。この返済には藩士からの借り上げ、領民からの徴税が当てられたが、返済財源の主力は薩摩藩特産の黒糖で、生産の主力を担っていたのは奄美群島の生産者たちだった。強制的な作付けと重い税が課せられ、島民は生死を彷徨う苦境を負わされた。奄美の住人はこの時期の苦闘を「黒糖地獄」と言っている。

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