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神田川の秘密32の(2) 時の政権(綱吉)とその母親(桂昌院)はやりたい放題
三十二の2 時の政権(綱吉)とその母親はやりたい放題だった
緩い登り坂が続く真っ直ぐな通りを音羽通りと呼ぶのは、文京区音羽地域活動センターの案内板によると「元禄10年・・・幕府が(桂昌院の)奥女中の音羽という者に(この地域一帯の)家作を与えた。(この)音羽の名をとり町名にした・・・」と。参拝道に奥向きの用を足した女中の名をつけるに及んでは為政者の好き勝手も良いところ。これも日本的な伝統による命名なのだろうか。
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ちなみに江戸川橋もこの時に建設され、護国寺前が1丁目、江戸川橋近くが9丁目だった。江戸城に近いところから順に番地がふられていた時代に、護国寺側(江戸城とは反対側)を起点に番地をふったというのは異例のこと。
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音羽町は例外
明治になって丁目は逆転した
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「(これは、綱吉が)護国寺をいかに大事にしたかがうかがえる」と文京区の案内板は述べている。維新政府になって、番地は逆にふり直された。維新政府の狭量な石頭ぶりが偲ばれる。
ところで、桂昌院なる女性の生き様がおもしろい。
(Wikipediaの記事を拾ってみる)
「寛永16(1639)年に部屋子として家光の側室・お万の方に支え、後に春日局の目にとまり、秋野という候名で、局の指導をうけるようになる。長じて将軍付きのお中臈となり、家光に見初められて側室となって、正保3(1646)年1月、綱吉を産んだ」
「(徳川実紀によれば生まれは)関白・二条三平の家司である北小路宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。・・・畳屋の娘という説・・・二条家・家司北小路宮内が久しく使う高麗の女に産ませた娘とする説・・・父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路宗正という説・・・(がある)」
家光が死ぬと桂昌院は筑波山・知足院に入るが、綱吉が将軍となると、江戸城三の丸に入った。将軍綱吉の母の地位についてから、くだんの護国寺建設はもとより、応仁の乱で焼失した京都の善峯寺、金蔵寺、南禅寺、乙訓寺、清涼寺、西明寺、などの再興に尽力したと書かれている。今風に言えば、気前よく金をばら撒いたということか。
実質は国庫のお金なのだが、全て徳川家の個人財産だから、何にどう使おうと勝手放題だったのだろう。お気に入りの亮賢を大僧正の位にまでつけている。この公私の分別のなさも現代に引き継がれているように思える。
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桂昌院は元禄15(1702)年に女性最高の従一位の官位を賜って、藤原光子と名前まで賜っている。平清盛の妻、時子が従二位に叙せられているが、これは妹の滋子が産んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子したことによるものだった。皇室と何の姻戚関係もなく高位の地位を得たということはこの時期、位階の値打ちはかなり低下していたのではないかと思わざるを得ない。桂昌院の実家の一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの(小藩ではあるが)大名として立身出世を果たしている。血液型はA型、身長146.8センチと分かっている。宝永2(1705)年没。享年79才。壮絶な人生だったに違いない。