神田川・秘密発見の旅 後編7 江戸時代の手土産事情はひどかったらしい
後編7 天下の大工事、神田川・仙台堀の開鑿工事責任者は伊達茂実。江戸時代の手土産事情
工事責任者の伊達成実は御目見仰付けられ、時服(じふく・朝廷や将軍から賜る季節の服)を拝領している。将軍に直接面接を受けるのはこの時代大いに名誉だったのだろう。伊達成実、大条実顆は政宗の重心で、成実は一門第二位、実顆は伊具郡・丸森城主で仙台藩奉行。
―工事の内訳は以下の通りー
石壁:13町余(1長は60間・110m 升形:1ヶ所
人夫:42万3179人
黄金:2676枚5両3分、1日あたりの人数:侍230人
人足:2000人
工事費用を現在の価値に変換すると、仙台藩はおよそ25億円を支出したことになる。工事費の総体には升形工事が含まれているからこの費用は神田川開削だけに投じられたわけではないそうだが、いずれにしても大きな工事であったことに変わりはない。
幕藩時代の外交で使われた「手土産」について触れておきたい。
寛永元(1624)年2月20日、政宗は将軍家光を江戸藩邸に招いてパーテ
ィーを開いている。
将軍側の手土産:馬1匹、銀子300枚、時服100領を政宗に
銀子100枚、綿200屯を政宗夫人に
馬1匹、銀子300枚、時服20領を忠宗に
以上とは別に、前将軍秀忠から伽羅を政宗に
伊達藩からの手土産:政宗からは刀3口(行平光忠国次)、
鞍馬2匹、服100領、虎皮10枚、銀子1000枚
忠宗からは太刀1口、馬1匹、銀子200枚、段子30巻
他に参列した水戸宰相以下数十名より賀儀の贈り物多し。
(東藩史稿)
日をおかず、25日紀伊中納言以下10名を招いてパーティーを開いてい
る(同上)。
4月12日、政宗が帰国を願い出ると秀忠から八丈縞100端、黄金100枚が
下されている。秀忠の夫人・御台所(小紅おごう)から政宗夫人に小袖10枚
が送られている(同上)
4月13日になって、将軍家光から銀子1000枚、唐織夜着5着が与えられ
た。秀忠とは別口の「手土産」となっている。
ついでながら、パーティに度々金銭を浪費しているこの年は10月に刈田一帯に大型台風があり、田畑が損害を受けたし、4月から続いていた寒波とそれに続く霜害が6月に、7月には大風があった(同上)。
寛永3(1626)年のこと。
5月15日、政宗は将軍家光、秀忠の供をして上洛することとなり、忠宗、宗高(政宗七男、村田伊達家当主)を連れて先発した。秀忠から政宗に銀子1000
枚、帷子(いし・たれ衣)100枚をもらい受け、
6月19日に京都三條邸に到着している。
忠宗は妙満寺に、宗高は要法寺に宿泊。
7月6日、政宗は禁中に銀子100枚、樽10、鶴2羽、晒布30匹を、
女院御所に晒布30 匹を献上した。
この時、宗高は従五位下右衛門大尉に任じられた。
7月12日、後から来た秀忠、家光の両将軍に従って参内し、
7月20日、勅使三條大納言公廣をもって掛香かけごう(匂い袋)30をいただ
く。
7月24日、近衛関白等10人余とパーティー。
こんな行事の連続の中、新しい爵位を得たばかりの宗高が「痘ヲ病ミ」宿泊先の要法寺で逝去してしまう(8月17日・享年20歳)。亡骸は直ちに奥州柴田郡田村城に送られたが、政宗はそのまま在京。なお、宗高の死因を「疱瘡」と表示している場合もあるがいずれも天然痘のことで、死亡率の高い病気のひとつだった。政宗の右目が失われたのも天然痘によるものだったという。日本の種痘が普及するのは江戸時代の末期。
8月19日、政宗は従三位中納言に、忠宗は従四位下右近衛少将に秀宗は従位
下に叙せられ家光から米を2000苞(つと)いただく。
9月6日、天皇が二條城に行幸され、両将軍が参内しそれに続き、
次の序列で配座した。
第一、従一位尾張大納言義道、第二、紀伊大納言頼宣 第三、駿河大納言忠長
第四、水戸中納言頼房 次が伊達政宗(束帯姿)
次は加賀中納言利常、続いて、薩摩中納言家久 越前宰相忠昌
その他45名と連なった。
この時、政宗の乗馬は紫大總を掛けた。ところがこれは前例のないことで、他の大中納言は紅だった、と東藩史稿は得意げに書いている。紫は最高位の色で、勝手には使えなかった。
9月7日、土御門泰重が来て、夜には二条城で歌会。
10月10日、近衛関白一条右大臣等とパーティー。
「其他前後饗応枚挙ニ遑アラス」(饗応で忙しく、喪に服して引きこもるどころではない)と記されている。政宗が京都を立ったのは10月16日。11月1日になって将軍の許可があり、12月10日に江戸を離れ、仙台には20日に着いている。帰国の手土産として将軍から銀子1000枚、服100着をもらい、秀忠からは黄金100枚、服を50領、八丈縞100端を賜っている。七男と言え、宗高が亡くなってから4ヶ月後のことだった。
11月13日に高仁親王が生まれたので12月25日になって、
禁裏へ白銀50枚、女院へ30枚、中宮には100枚、
親王自身に太刀1口を献上している(貞山公治家記録)。
これら手土産のやりとりは正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、幕末に至るまで延々と続いていく。いつ、誰に、何を差し上げたのか。いつ、誰から何をもらったのか事細かに記録を残している。
公開されていたとは思えないが、記録を廃棄したり、改竄したりした形跡はなさそうだ。これが日本の伝統であったはず。物のやり取りだけでなく、藩主の細かな行動記録が残されているのも失ってはならない日本の良き伝統だろう。
余談になるが、寛永9(1632)年1月24日、秀忠が薨じている。
2月18日に忠宗が仙台に帰国するにあたって、家光から前将軍の遺物として忠宗に銀子1万枚と黄金300枚が下され、銀子1000枚を忠宗夫人に下賜されている。