神田川・秘密発見の旅 後編22 借金を踏み倒す方法教えます
後編22 仙台藩は財政のやりくりをどうしたのか
これらの藩運営金の不足分は新田開発分(37万5000石)を藩の直轄地(蔵入地)にした収入で賄っていたが、気候変動による減収などがあって、収支は常に苦しかった。
「仙台藩陸奥領における財政構造」をみると
「こうした綱渡りのような藩財政のやりくり苦心は続くが、歳入欠陥をかかえた財政のもとで、まとまった臨時的歳出(お手伝い普請など・・筆者注)が必要となると富商を御用商人として取り立て、それに依存せざるを得なかった」と書かれている。この点は木曽川3河川のお手伝い普請を請け負った薩摩藩の事情と同じである。
仙台藩は政宗以来、京都の大文字屋宗怡(むねい)から度々の借り入れに依存してきた。忠宗の代にはその額が8万9000両に及び、その内の7万9000両を上納させた(踏み倒した)とされる(古伝密要)。
大文字屋はついには仙台藩に潰され、扶持1000石で仙台藩の家来になってしまった。その他に蔵元となった京都の阿形作兵衛・江戸の海保平兵衛らさが、彼らも結局仙台藩に貸した金を踏み倒されて家来になってしまったという。大阪の平野屋三郎左衛門・江戸の紀伊國屋九郎兵衛・中川作右衛門・宗屋与四郎なども踏み倒しの被害を受けている。
大阪の富商升屋はこれらの蔵元とは一味違っていた。
番頭の升屋小右衛門は仙台藩の江戸廻米の現金化を引き受けるにつき、1俵について1合の「差し米」(差しという竹筒を俵に差し、差した分は升屋の取り分(仙台・利根川河口の銚子・江戸深川の仙台堀川蔵屋敷で3回の差し米をした)としたので升屋は荷物を動かせば動かすほど利益を手にすることができた。
しかし、この升屋からも仙台藩は借金をし、弘化年間(1844~48年)、
借金がついに100万両を超えてしまった。やり手の小右衛門が亡くなり代替わりが続き、升屋は蔵元を辞任したが、維新を迎えると倒産した。
現代に直すと1000億円近い貸付があったことになる。
つまり、仙台藩の財政逼迫は構造的なもので、そのことは仙台藩に限らず日本中の藩がそうであったし、大・小名の上に乗っていた徳川幕府そのものが経済的な破綻をきたしていたのだった。米の生産を基軸にした経済体制の上に貨幣経済が乗っかる構造は年とともに矛盾と行き詰まりをみせていた。実体経済は米の生産から建築(大工・左官)、商業(金融・売買)、サービス(演芸・出版)など多彩に展開され、貨幣経済へと移っていた。
欧米諸国は産業革命(1700年代半ばから始まる)を経て、政治・経済の根本的な構造変化・改革を成し遂げていた。近代化を終え、資本主義経済体制となって帝国主義と呼ばれる覇権主義の時代になっていたのだった。