神田川・秘密発見の旅 後編32 銭形平次と神田明神あたりをさぐる
後編32 銭形平次と神田明神あたりの様子をさぐる
「♬男だったら一つにかける・・・♬」
舟木一夫の歌で始まる銭形平次は毎週楽しみにしていた番組だった。
平次役は大川橋蔵、八五郎は林家珍平だった。
「親分!てえへんだ、てえへんだ」
とがらっハが平次の長屋に駆け込んでくるシーンから始まる。歌詞の出だしの一節は今ならジェンダー平等のコードに引っかかりそうだけど、リズム感のあるテーマミュージックは今でも誦じて歌える。
銭形の親分は野村胡堂の連載小説「銭形平次捕物控」の主人公だから、実在の人物ではない。しかし、神田明神の境内には長谷川一夫、大川橋蔵他、出版社などが発起人となって平次の碑、「がらっハ」の碑が建てられている。ネットを検索してみると「平次は実在する人物ではありません」とわざわざ断り書きがされているのを見かける。
小説の時代背景は最初(第1話~30話)の時代が江戸の寛永年間(1624-1645年)、その後は文化・文政年間(1804-830年)と解説されている。
では、第一話を見てみよう。
平次は未だお静と世帯を持っていない頃の話ではあるが、
お互いに心惹かれていた。
がらっハはまだ登場していない。題名は「金色の処女」。平次の年は24・5才。苦み走ったいい男と紹介される。平次はいきなり南町奉行筆頭与力・笹野新三郎から相談を持ちかけられる。
「3代将軍家光公が雑司ヶ谷鬼子母神のあたりでお鷹を放たれた時、どこからとも
なく飛んで来た一本の征矢が、危うく家光公の肩先をかすめ・・・」
「その曲者も召し捕らぬうちに、(家光公は)再度雑司ヶ谷の御鷹野を仰せ出され
た・・・」
「それで御老中方から、朝倉石見守様へ直々のお頼みで、是が非でも御鷹野の当
日までに、上様を遠矢にかけた曲者を探し出せとの・・・」
で物語がスタートする。
家光は秀忠が薨じた翌年(寛永10年、1633年)から親政をスタートさせている。幕政では老中、若年寄り、奉行、大目付の制度を定め、武家諸法度の改革で参勤交代の制度を導入した。外国交易については朱印船を廃止して鎖国を強化した。寛永19(1942)年には大飢饉が起き、全国的に財政が疲弊し、諸藩の民百姓は苦難を強いられたが、その頃(正保元年、1644年)、中国では明が滅んで清がとって変わった。
家光の強権的施策の実施で、徳川の全国支配が固まる一方、難しい舵取りも起きていた時代だった。
家光は慶安3(1650)年に病気になり、翌年4月に亡くなっている。つまり、家光が鷹野に興じたのは寛永年間のことと考えられる。こんな背景から、野村胡堂の小説が寛永時代から書き起こされたことが分かる。住んでいた長屋は、明神下にあったことになっている。
「江戸の時代に御台所町と言われたあたりにあった」という解説もあるが、御台所町は明暦の大火後にできた町で、それ以前は広い寺社地になっていたから、御台所町は寛永年間にはなかったのではないか。
(歳をとるとどうでも良いことにこだわるようになるもので・・す)
この辺りの江戸図(寛永19年板)を見ると、神田明神下一帯には霊仙寺、万願寺、長福寺などの寺社が何件か並んでいて、その外部には武家屋敷が書き込まれている(江戸東京地形の謎、芳賀ひらく・二見書房刊)。と言っても町人が住む長屋が皆無だったわけではなさそうだ。神田明神前の道路を挟んだ反対側には「町」と書き込まれているスペースがある。町人地を示しているのだろう。さらに、神田川を崩橋(昌平橋の古い名前、仙台堀開削第2期工事の頃の呼称)を渡った先にも町人地の表示が見える。
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