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神田川・秘密発見45-(2) 小石川後楽園は大名邸跡だった。庭園内を神田上水が流れている

四十五の(2) 小石川後楽園は見事な公園だし、
        ここが大名屋敷だったのかと思う。

 (膝が痛いからといって)ここで川旅を取りやめると一生歩行に苦しむんじゃないかと老体に鞭打って無理やり出かけた。これって、「一生に一度だからオリンピックの閉会式を見にきた」とインタビュに答えていた老人と同じ心境なんだなと思う。出る前に、小石川後楽園をネットで呼び出し、休園日のチェックをした。月曜日でも休みではなかったが、予約・整理券をネットで事前に受け取らないと入園できないことになっていた。コロナだからね。

後楽園入り口(正面)

 仕方がない、ネットを通じて申し込む。こういうのって、ネットを使っていない年寄りには負荷が大きい。整理券だからクレジットカードまでは要求されていないが、これは入場人数を制限するための措置ではないだろう。氏名とメールアドレスを確認して、コロナのクラスターが発生した場合の情報追跡に使うためだろう。と勝手な想像をしてしまった。

泉水は形が良い

 実際入園してみると、園内の人影はパラパラだった。65歳以上は一般入場料の半額(150円)。公園の広さや築山、大小の泉水、石橋、梅林など変化に富んだ庭園は散策にもってこいで、たとえ300円でも入園料としては高くないと感じた。泉水や築山を見るために入園した訳ではないから気にはならなかったが、この公園、大きな器の中に、あれもこれもとぶち込んだ雑炊のような庭園で、庭園思想のようなものは感じられなかった。この庭園が水戸徳川家の上屋敷に併設された庭園であることは有名で、施主は徳川家康の十一男、徳川頼房だった。

西湖の堤(ミニチュア)

 趣味が悪いというか、モノマネ、ミニチュア嗜好で後楽園独自の主張は乏しいと感じながら歩いた。「西湖の堤」は中国・杭州の西湖を模した造りと説明されているが、あまりにもチンケで西湖の蘇堤とは似て非なるものだし、その脇の渡月橋も京都・嵯峨野を思い起こすにはあまりにもイメージが違っている。愛宕坂に至ってはその名前がついていることが恥ずかしいくらいのミニチュアだった。むしろ復元された唐門やひっそりとした佇まいの赤門などの方が武家の文化を主張していて趣があった。唐門両脇に白壁を復元する計画があるそうで、そうなると武家屋敷の雰囲気が引き立つのではないかと思えた。

屏風岩
徳川3代将軍家光が訪ねたと看板に書かれている

 そもそも自分自身、庭園の値打ちが良く分かっていない。全体の構成、泉水の規模や水の流れ、大小の石の形や姿など意味がさっぱり分からない。偶然のことだが、8月23日、日経新聞主催の『江戸・東京の日本庭園』の見方、歩き方講演会が案内されていて、行ってみることにした。3回開催で、参加費1万3000円。日本庭園の設計と庭園史の研究家、重森千青シゲモリチサオ先生が日本庭園の泉水、枯山水、路地の構成や魅力、鑑賞方法を解説してくれる・・・との触れ込みなので、期待している。とはいえ、講演会でのお話は神田上水には関係していないかもしれない。講演は六義園の解説もあるそうなので、事前に六義園を覗いておこうかと思っている。

園の外塀から園内に神田上水が流れ込んでいるところ
外は暗渠で見えない
神田上水・園内の流れ
背後に後楽園の観覧車が見える

 さて、開渠を流れた神田上水は水戸藩上屋敷の北西部から屋敷地内に流れ込んでいた。今の後楽園の庭園図で見ると流入口は団体休憩所、トイレのあるあたりに相当する。今ではポンプアップした地下水が園内の神田上水跡に流し込まれているそうだ。川旅老人が見た堰堤(エンテイ)の石組が当時のままの姿だとすれば、幅3㍍、深さ50㌢から1㍍ほどと思える上水道の水量はかなりのものだったと想像できる。それでも江戸の飲水は不足していたというから、江戸の殷賑はすごいの一語につきる。江戸はローマや長安にも引けを取らない大都市だったんだと思う。

神田上水の流れは江戸時代のままかどうか?
雰囲気は出ているけど・・

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