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神田川の秘密31 神田川は豊島区内も流れているんだ。椿山荘も近い。
三十一 駒塚橋から椿山荘へ、途中の水神神社と芭蕉庵
駒塚橋に戻ったのは6月1日だった。細川庭園で抹茶をいただいたのが4月27日だったから、神田川にしばらくご無沙汰をしていた。5月の1ヶ月、急に思い立ってホラー小説(六道輪廻)を1篇書いた。思ったときに書いてしまわないと、老人の場合は忘れてしまったり、熱意が失せたりするからね。書き終えて、神田川に戻ったのだった。
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駒塚橋の袂で、水神神社を見上げる。
セメント造りの鳥居の後ろは石段になっていて、20段ほど上がり切ったところに狭い参道を挟むようにして銀杏の大木が2本聳えていた。青空を切り取って太い腕を2本、天に突き上げているように見える。ここの水神は水門を守る神が祀られているそうだ。
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意を決っして、胸突坂を上がる。半分も行かないうちに息が切れる。しかし、足を止めてしまっては坂を上がりきれなくなるのが老人の足だと分かっているから、息が切れても休まずに登り切った。ふくらはぎがジンジンと痛む。無理を押して坂を上がってきたには訳があった。野間記念館が閉鎖されているのは知っていたが、椿山荘まで行きたい。野間記念館前まで行って目白通りを右折し、椿山荘に着いたらそこで、コーヒーを飲んで一休みしようという趣向だった。
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胸突坂をほぼ登り切ったあたりに、蕉雨園という建物の入り口が見えた。坂道を挟んで細川庭園の永青文庫のちょうど反対側の場所になる。門の前庭に『私有地につき立ち入り禁止』の看板があって、いかにも冷めた態度で人を拒否していた。講談社の社有地らしい。この建物の歴史を知ろうとググってみた。ブログ名で「胸突坂の蕉雨園と田中、渡辺、講談社の野間」に丁寧な解説が出ていて、とてもわかり易かった。
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蕉雨園は明治30(1897)年に田中光賢伯爵が建て、目白御殿と呼ばれていたそうだが、大正8(1919)年、渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲渡。渡辺銀行の破綻で1932年(昭和7年)に講談社の創業者野間清治が買い取った。現在は講談社グループの所有で茶会や映画撮影などに使われていると書かれていた。ちなみに、蕉雨園命名の経緯も書かれていて興味が湧く。東隣に隣接するのが山縣有朋邸(今の椿山荘)で田中は土佐藩を脱藩してのち長州藩を頼って高杉晋作の弟子になり、戊辰戦争を戦っている。山縣有朋とは旧知ではなかったかと推測を書いていた。
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田中は維新後、岩倉使節団に参加し警視総監、学習院院長、宮内大臣となっている。幕末維新の激動期、徳川家とその旗本・幕臣の所有地、地方の藩主の屋敷地を取り上げた新政府は山口県、鹿児島県、熊本県、佐賀県出身の元勲・功臣に東京の土地を分け与えている。伯爵などの華族の称号も与えた。その中には明治・大正・昭和と移り行く間に落ちぶれて、土地を手放した人も少なくない。買い取ったのは新しく勃興してきた会社経営者達だったのだろう。
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隅田川までは残り7キロ、まっすぐ歩けば1時間半で到着する