神田川の秘密三十の1 山吹の里、氷川神社、 乳房榎
三十の1 山吹の里、氷川神社、乳房榎
神田川に造成された魚道を見ながら曙橋を過ぎ、神田川の左岸を面影橋の袂まで進む。
この角に「山吹の里碑」がひっそりと立っていた。急ぎ足で過ぎてしまえば気付かないほどのささやかな碑で、脇に豊島区の教育委員会名の説明看板があった。
山吹の故事は川旅老人の世代であれば子供の頃に一度や2度は聞いている。
豊島区の看板に曰く、
『太田道灌が鷹狩に出かけて雨にあい、農家の娘に蓑を借りようとした時、山吹の一枝差し出された故事にちなんで(この地域一帯が山吹の里と言われるようになって)います。
後日、〈七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに無きぞ悲しき〉
(後拾遺集・兼明親王)の歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承・・・』
後拾遺集はネットの情報だと白河天皇の勅命により編纂された和歌集で、
撰者は藤原通俊。
承保2(1075)年から元徳3(1086)年の11年を費やして完成されたものと出ていた。和泉式部など女流歌人が3割を占めているそうだ。一方、太田道灌といえば初期江戸城を作った武将で、室町時代の人(1432年~1496年)。徳川家康の江戸開府が慶長8(1603)年だから太田道灌は家康が江戸城に入る100年前に死んでいる。
太田道灌の故事で、父親から教えられたのは、
豊島区の看板に書かれている(太田道灌が己の)「無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだ」という部分。室町時代の武人には自らの無学を顧みる精神があったということ。一国一城の主人であっても、学問に対する謙虚さを失っていない。今日の日本人が失いつつある大事な価値観だと改めて想いを致した。
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