神田川逍遥 秘密を探す
五 明暦の大火
古いことを長々と書いたには訳がある。
川旅老人は神田川42・5キロを源水から河口まで歩いてみようと決心していたが、先ずは出発点の吉祥寺に吉祥寺という寺が無いことを知った。地名の由来は何なんだろう?じゃ、吉祥寺はどこにあるのだろう?神田川に沿って下っていく前に、この疑問を解決したくなった。ネットの情報を見ると、明暦の大火がその原因になっていると説明されている。小学、中学・高校と火事の大きな破壊力を経験してきた老人は神田川を下っていく前に、明暦の大火を訪ねることにした。
とはいえ、この半世紀(50年)火事を見ていない。火事の恐ろしさをすっかり忘れかけている。この記憶を呼び起こしておかなければ、江戸の大火の恐ろしさを感得できないだろう。これが古い火事の記憶を書いた理由。そして、まごうことなく、明暦の大火は火の力の脅威を見せつけた大災害だったし、冷酷に人の命を奪っていく灼熱地獄だったことが分かった。
明暦3年(1657年)、旧暦1月18日(新暦3月2日)、江戸本郷丸山の本妙寺(現在の文京区本郷5丁目16のあたり)から出火した火の手は翌日19日になって小石川と麹町の2カ所から起こった新しい火事が加わって、2日間にわたって燃え広がり、江戸の街を総なめした。町人たちの住む長屋は板葺きか藁葺き屋根で、壁は板壁。防火用水も整備されていなかっただろうし、火消しも力がなかっただろう。燃え盛る火に、手桶で水をかけたくらいでは火勢を食い止めることはできない。実際、町筋に置かれた天水桶の水は火事場に踏み込む火消しが頭から被る水として使われていたそうだ。当時の火消し道具を見る限り、鳶口、さすまたなどが主力で、燃えている家屋はそのままにして、火に近い建物を引っ掛けて壊したり、押し倒して壊す道具として使われていたことがわかる。木の筒になった箱型の水鉄砲なども博物館に行くと見ることができるが、消火にはあまり役立ったとは思えない。この頃は延焼をくい止めることを目的にした破壊消防だったことが分かる。
明暦の大火は別名振袖火事と呼ばれている。
江戸の街の6割を灰塵に帰し、江戸城の本丸、二の丸、三の丸、天守閣まで灰にした大火がなぜ振袖火事なのか。巷間語り継がれ、江戸の人々の間に広まった振袖火事の伝説は実に良くできていて、高校の本校舎が全焼した時の出火物語など比ぶべくもないスケールの大きさだ。逃げ惑う多くの人々の命を奪い、瞬時に全ての財産を焼き尽くした大火に、江戸の人々は恐れ慄いたであろう。尋常ならざる大火には特別の理由を必要としていたに違いない。人知の及ばない大事件について、摩訶不思議な物語を語り継ぎたくなったのも理解できるような気がする。それに、大きな火事には何かと噂話や物語がついて回ることを多くの経験が物語っている。それが振袖伝説になっただろうと容易に想像がつく。が、それはさて置く。
ここに『むさしあぶみ』という仮名草子がある。
浅井了意という江戸時代の作家が書き残した小説を、万治4年(1661年、大火から4年後)に中村又兵衛(京寺町二条下ル)が開板したもので、明暦の大火を語る上で欠くことのできない史料と言われている。いつの間にか77歳の老者となってしまった川旅老人が国会図書館で借り出したものは山本九左衛門版で、延宝4年(1679年、大火から22年後)に板出されたものだった。書体は毛筆で手書き。きれいな仮名文字で、漢字に振り仮名までついているのだが、悲しいかな川旅老人には読み取れない箇所が少なくない。別な日、都立中央図書館に出向き『日本随筆大成』(吉川弘文館 昭和4年8月15日刊行)所収の読み下し文を併せて読まざるを得なかった。この読み下し文は寛延3年(1750年)11月、明暦の大火から93年後に出された崇文堂(日本橋南3丁目、前川六左衛門)板出の読み下し版で、良く見ると挿絵の枚数が山本九左衛門版と違っていたり、同じ絵と思える場面で表現が違っていたりする。文章・書体は変わっていないが、手書き、書き写し、版木刷りの面白さなのだろうか。まあ、それは良い。
『むさしあぶみ』は楽斎房と名乗る僧が京都北野の御社(オンヤシロ)などを拝み巡り、京・湯島天神で古い知り合いの小間物売りに出会ったところから物語が始まる。「何でそのような格好(僧侶の姿)をしているのか」と問われ、楽斎房が大火で着の身着のままになった経緯、阿鼻叫喚となった大火の悲惨な実情、その後の復興の様子を語って聞かせる構成になっている。上下2巻で、山本板は上巻が16ページ、挿絵4ページ。下巻は30ページで挿絵が6ページの物語である。ネットの情報などはこの『むさしあぶみ』を元ネタにして明暦の大火を説明しているものが多い。
『むさしあぶみ』は江戸時代に何度も版を重ねているが、明暦の大火を描いたものは現代でも多く出版されている。写真集さえ出ている。しかし、川旅老人が読んだ史料の中では『明暦の大火』(黒木 喬著 講談社現代新書、以下・黒木新書)が出色で、『むさしあぶみ』と並ぶ読み物であった。明暦の大火を知ろうとすれば、この2冊は欠かせないと感じている。黒木新書は多くの古文書を繰って大火の実態とその後の復興の進捗を考証していて、信頼性が高いと感じられた。しかも語りは平易で装飾が少なく、火事の悲惨な状況、火事の原因、大名や為政者(幕閣)の動きをまるで物語を読むような調子で書いているから、物語性の点でも『むさしあぶみ』に負けていない。大火に直面した時の大名たちの行動がリアルに書かれていて興味深い。黒木新書と『むさしあぶみ』を繰り返し読んだ。
しかし、明暦の大火そのものも脇におく。神田川で起こった歴史的事件に戻りたい。吉祥寺という曹洞宗の寺は明暦の大火まで、現在の水道橋の近く、外堀通り左岸にあった。新宿方面を背にして水道橋の上に立つと、左手すぐの場所に当たる。明暦の大火前、吉祥寺は総面積1万7000坪の敷地を持っていた。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれ、今の外堀通りは吉祥寺通りであった。そこには現在、都立工芸高校の鉄筋コンクリート建ての校舎が立っている。
明暦大火の2日目(19日)、小石川伝通院の表門下、新鷹匠町(現在の文京区小石川5丁目)の大番衆与力の宿舎から上がった火の手は吉祥寺まで直線にして南へ1.4キロメートル。吉祥寺は出火元の風下にあった。大きな伽藍と2万坪近い敷地を擁した吉祥寺は紅蓮の炎とともに焼け落ちた。この時の様子を『むさしあぶみ』がリアルに語っている。
「・・・時刻をうつさず、吉祥寺の学寮、院云坊云もえうつり、車輪ほどの炎、くろけぶりの中に飛びちりて、十町、二十町が外にもわたる事、同時に廿余ヶ所なり」と。
もっとも、吉祥寺の近くにあった水戸中納言頼房の屋敷(7万6600坪、出火元から850メートル)も全焼しているから、北西の強い風に煽られた火の力がいかに強かったかがわかる。吉祥寺は最初の出火元本妙寺からも南西1.5キロメートルに位置していたが、初日の第一波からは危うく助かっていたのだった。つまり、2ヶ所の出火元は直線距離で2キロメートルしか離れておらず、吉祥寺から2カ所の火元を結んで見ると二等辺三角形をなしている。出火元が近いだけでなく、いずれも江戸の街の最北部に位置していて、連続した出火元になっている。江戸の再編に悩んでいた幕府の首脳が放火させたとは言わないまでも、この出火を結果として歓迎したと見ることは可能である。
本妙寺から出た第一波の火事は火が出たのが昼過ぎ、湯島天神、神田明神を焼き、神田須田町・淡路町・小川町へと燃え広がり、小伝馬町、日本橋界隈を焼け野原にして万世橋、浅草橋に至り、川を越えて霊岸島を襲っている。分岐した火の手は海を越えて佃島を焼き払った。火は翌日19日の午後2時ごろ海に至って鎮火したが、14、5時間暴れ狂ったのだった。消失町数48町、延焼距離5.3キロメートルに及んでいる。
2日目の出火は午前11時過ぎに始まって麹町界隈を火の海にした後、江戸城を焼き、日比谷、京橋方面に魔の手を広げ、川を渡ると前日にかろうじて一部が焼け残っていた八丁堀に及んで午後6時ごろようやく鎮火している。延焼時間約7時間。消失町数58町、延焼距離は第一波と変わらず5.8キロメートル。
更に19日16時頃、麹町5丁目の町家から発生した第3波の火事が追い討ちをかける。第3波は江戸城の内堀に沿って南下し、桜田門、日比谷界隈、新橋へと燃え広がり、芝の増上寺を灰にし、海に至って翌日の朝8時頃鎮火している。延焼時間にして16時間。40町、4.3キロメートルを灰にした。消失した町数は、しめて146町になる。明暦の大火頃の江戸町数は約300町と言われているから(東京都公文書館)その約半分が消失したことになる。
路地・路地は狭く、しかも運び出された家財道具や車輪付きの長持ちで塞がれていて更にそれに火がついて逃げるには不都合だった。馬場や大名屋敷で飼われていた馬が逃げ出し、多くの人が蹴倒されたが、その馬も多くが焼け死んでいる。火を避けて川に飛び込んだ人は寒さで凍死し、その上に更に重なって飛び降りる人が山のように折り重なったと『むさしあぶみ』は語っている。火事が収まった20日の夜半からは雪となり、家や衣類を失った人々の多くが寒さに命を落としたという。『江戸火消しの世界』(白井和雄、明暦の大火)では焼死者10万7000人としている。