本を読むのは良いか悪いかわからん
ある心理学者が言っていたが、絵本を読書にカウントできるから、もうけもん…云々、と言うのを思い出した。
理系ヲタの作品にすらマンガも読書にカウントされているのだから、漫画を卑下して活字を尊んでいた近代教養人らが泣くだろう。
しかし、マンガの効用は図示しながら吹き出しで伝えるという描写のわかり易さが良いのだ、と養老さんは言っていた。
そこが、マンガの凄さだ、と。
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ところで、肝心の活字はどうだろう?
眉唾な統計によれば、活字を読む量が多いと年収が良いらしい。
逆に、その時間をネットやSNS、ゲームで消費した場合は、年収が上がらないという(私にはあてはまらない)。
要は理解力である。
理解しながら、本の内容を様々なシーンにあてはめたり、連想、関連して考えたりすることで、初めて本の効用が現実的(≒現世利益的)にあった、とも言える。
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ときどき、夜間学校のドキュメントを観るのだが、過去に得られなかった教養を取り戻そうとするシーンにグッと来る。
私なども、夜間学校までは行かなくても、本を通じて昔得られなかったり、他人よりも不足している活字に触れ、増やそうとはしている。
とある塾講師などは、国語力がなければ文章も読めないゆえ、全ての教科はおろか、世の中一般においても必要という。
ツイッタなどが、感情だけしか書いてないと、槍玉に上がるが、少し古い人が言うには、いまの小説だって文章を練っておらず、感情の吐露しか書かれていない、などいう。
また、現代作家が如何に○○してないとか、批判の嵐で作家が聞けばブチ切れることも、言っていたが、ここでは書かない。
本の効用が理解力ならば、物事を考え、1度、出来事をインプットして、時間をかけて排出するという、知的な作業も含まれている。
さて、私の場合どうか?といえば、まだまだ深刻ではあるが、まだマシになったところである。
学校を逃げ回っていたクチであり、文章を見ただけで頭が痛くなっていたのが常であった。学校嫌いかつ、勉強嫌いは筋金入りだったのだ。
もちろん、瞬間記憶みたいに見ただけで読めるし理解できるという天才には届くはずがないが、もし、文章に触れる機会が無かったら今の仕事の理解も難しかっただろう。
ちなみに、小説などは人間をわかろうとするものである。
心理描写はともかく、人間のすることにパターンもそうだが、背景…イメージや何故そうするか?という可能性が描かれている。
人間が分からなくなったときは、小説などを読むのが効果的だ。
無論、マンガなども絵付きで吹き出しに、コメントが描かれているが、より即席な心理描写や感情描写と言えよう。
ときどき、しっかり考えて早口で語る者がいるが、あれは感情を組み立てて話しているようなものである。
従って、それに乗せられ会話などすれば口論に繋がったり、終わらない愚痴に付き合わされる、というのがあるかもしるない。
しかし、まあ、先に私の理解力の涵養を目指さなくては、対人コミュニケーションすら、危ういままである。