書くこと(言葉にして分かること)
稚拙な雑記を書いていてアレなものだが、書いていて分かることがあるし、見えてくることがある。
大槻さんは、書くことで自分が見えてくる、といった。
自分が整理される、客観視のことか?
しかし、もうひとつ効能をいうなら、書いたり、考えたりすることで、これは〇〇だったとか、××何だろうとか、浮かんで来るものがある。
何をしたか、されたか?についても、そうだ。
表面上は良く見ても、実はとんでもないこと、酷いことの可能性があったりする。
よく分からないことを、とりあえず保留にしたり、宙ぶらりんにしておく、そういう手法を選ばざるを得なくなる。
かえって、きっちり決めないで保留のまま、時間がものごとを氷解させるというのも、大事な仕事だ。
見境なく、やってしまうのがいけないのだが、観察のなかで直ぐ動けるような待機、待つというのも大事でもある。
たぶん、本来はそんなことも、仕事の内だったに違いない。
いまは、セコさと忙しさゆうに、観察(または待機)の最中に別の何かをさせたり、どうせ〇〇だろうという、可能性を潰しながら仕事したり、物事を経過させたりというのがある。
何もしない無為というのは、アイドリングのようなものだ。
ゼロに見えてゼロではない。
正数のようであっても、その働きをしない、みたいな。