難しい時代になった
家庭持ちが年収1000万というグラフを見た。
専門家の中にはお金は幸せの換金券ではないというが、無いよりあった方が生活は便利だろうし、幅も広がる。
悪いことは無い。
もし、こんなことが本当ならば、かなり残酷な世界に見える。
豊かに暮らし、必要な時に1000万の人間に優先席を空けないといけないとか、ルールが先立って、事の本質は無いことにされる。
よく、金持ちが優遇される制度が揶揄されるが、インボイスを見る限り嘘ではないだろう。
あからさまに、輸出向けで間違いのない商売人らをヨイショしておき、個人事業主などら隅々まで収入を計られるのだから、それに対して支援などは意味が無い。
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難しいのは、抜け道すら探すのが容易ではないこともある。
抜け道とはいうが、悪い意味ではなく、程度の問題であり、ある意味愛嬌くらいの話だ。
酷く例えれば、泥棒にも多少の情けをかけるとか、敵にも逃げ道を作り深追いしない知恵などだ。
少し前から、理論や正論が強くなったと感じるし、監視カメラもアチコチにある。
平和や不文律的な常識やモラルに最後のトドメを刺したような事態ににも見える。
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世界が悪くなっているのかどうか?
専門家などは、好んで近世の残酷さを例に出し、今より悪いというが、時代ごとの辛さ、過酷さはバリエーションがあるのかもしれない。
ある意味、神代から人間は変わっていない。
ゼウスなんか例に出したら、ジャニーズどころの話ではなくなる。
あらゆる方面に手を付けていたし、それでトラブルにはなるが、とっちめられることは少ない。
変な話、暴力や残酷さは形を変えて存在しているように感じる。
法律や常識が露骨な暴力を許さなくなれば、迂回しながらも、表現を変えた…しかも、人間を殺傷するパワーは温存しているのだ。
四半世紀まえのバブルが弾けたあとの中高年の自殺も、遠因的な暴力に見えなくは無い。