神話の危険❷
神話は、歴史以前の主客混沌とした物語りであろう。
不思議なことは科学のない時代には、自分と込みの世界、不分離の体験であった、と河合某は述べた。
現代になれば神話の代わりに科学や心理学、文学、ヒューマニズムなどになったのだ。
最近では人工知能が取って代わっているが。
プロメテウスは火を盗んで人間に幸いを与えたが、その分人間の責任も重くなったと言える。
要は良いこともあればリスクも抱えないといけないのだ。
市場主義や好んで代替案を出すのがいるが、やった結果の裏では、その燃えカス、リスクを世界のどこかに放り投げているかも分からない。
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神話は無意味か?といえば、そうではない。
いまは、神話の代わりに科学を選んだ時代であり、要は時代により使うツール(神話や人工知能)として異なるのだ。
古代には、自然発生的に神話が出て機能したが、いまはプロメテウスや神でもなく、人間がリスクや責任を何とかしないといけないのだ。
神話やスピリチュアルに酔うというのは、現実からの退行であるし、素っ裸な「あるがまま」な状態である。
素っ裸なら、状況が悪くても神霊が後は何とかしてくれるし、運命と思えば、諦めて受け入れる。
仏教を信じなければ錫杖で殴り殺していいというのがあるが、それは例えであり、修行に対する勢いだ。
いまは、法律や常識、モラルがあるから出来ないが、どうも扱(しご)きや、ハラスメントの部分で正当化されているように見える。
というのも、神話や宗教をやることが、かなり原始的に見えるからだ。
歴史の観察や考察、今の生活の吟味、状況を自分で何とかしてゆくなど、人間が自分で決めなくてはいけない。
しごきは良くないが、与えれた物事を自由に使ったり、自制する強さが求められるのだ。