不器用は罪か?


何だか世の中の批評視点が気になる。

確かに昔は他人が面倒見たとか、親戚が代わりに…云々と聞くが、面倒見の良さ、悪さは、昔と大分違うと感じる。

今も昔も、悲惨なケースはあるだろうけど、標準的に言えば、いまはかなり自立した態度が求められているように見える。

保育士の件にしても、何だか自分で始末をつけないといけない状況を予想してしまうのだけど、フォローなり、手助があれば、違ったのではないか?

また、パンケーキの首絞めの件にしても、たとえ執拗な性格をしていたとしても、孤立無援な状況になってしまう、というのは問題ではないか?

1番、いまやりやすく、陥りやすいのは、IQがどうだとか、サイコパスだとかで、問題を片してしまうことだ。

これは、被害者も浮かばれない。

多少の不器用や、何かを攻めやすいという性向に対して、幾つものアプローチがないという方が問題である。

弱者と括ったり、発達障害や性格異常とまとめるのは、そこから問題を止めてしまうことになる。

まあ、問題の解決すら開発されないこと自体が問題なのだけど、ネガティブなことに烙印を押して、そこから抜け出せないようにするのは、あたかも呪縛されてるようだ。

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難しくしているのは、現状を悪い方に維持する力だ。

河合隼雄は、問題は解決するために存在する、と言ったが、下手に問題をからかったり、もてあそんでみても、何の向上もなければ、進展もない。

ネガティブな状態は、そのまま格差のように貼り付けられ、身動きできないようにされているのではないか?

頭のいい人間ですら、可能性がないとか、将来に光がないなど言うのは、虐待に近いことをしているように見える。

ギフテッドとして頭がいいのだから、どこか世界に対して還元しても罰は当たらない気もするが。

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